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 ストリート・チルドレン
著者
盛田隆二 /著
出版社
新風舎文庫
定価
税込価格 620円
第一刷発行
2003/11
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ISBN4-7974-9074-8
 
盛田隆二 デビュー作  文庫版で完全復活!
 
ストリート・チルドレン 盛田隆二 /著 画像

本の要約

「新宿」を舞台に、ある一族の三百年にわたる「生」と「性」の軌跡を描く異色長編。一六九九年、十九歳の青年が下諏訪の村から「内藤新宿」に出奔する。その青年を一代目として、彼から流れ出た血の因果は、男色者、遊民、歌舞伎子、詐欺師、家出娘、廃疾者など、ことごとく路上の民で彩られながらも、三百年後の一九九八年、出稼ぎフィリピーナとのあいだに子をなす十三代目の青年まで危うく一筋に流れる…。旋風を巻き起こした盛田隆二のデビュー作がついに文庫版で完全復活を果たす。



オススメな本 内容抜粋

第一章

組頭の年若い女房トヨをたった一度の交わりで孕ませてしまったことを知り、春彼岸の中日に下諏訪の村を逃げだした十九歳の三次が、四人の追っ手を振り切り、大豆や小豆の茎葉で飢えをしのぎながら中山道から甲州街道を上り、ようやく江戸は内藤新宿にたどり着いたのは一六九九年初夏のことだった。
弓なりの青空に積乱雲が立ちのぼる午の刻あたり、三次は延々と引きずってきた足を問屋場の前で止めた。
生まれてこのかた見たこともないほど大勢の人々が、目の前でひしめきあっていた。
口の脇を流れる汗を拭う気力もなく、三次はしばし呆然と立ちつくした。
風雨にさらされ、ぼろきれ同然となった合羽は異臭を放ち、顔は垢にまみれ、伸び放題に伸びた髪も糊で固めたように頭皮に貼りついている。
追われることの恐怖から逃れるための方法は、追っ手の手にかかるか自死するか、いずれにしても死ぬことしかない。
昼夜なく襲いかかってきたこの死の誘惑は、あやうく三次から生きる気力を根こそぎ奪うところだった。
だが、次々に到着する馬から荷物を下ろす人足の機敏な動作や、腰をかがめて馬のわらじを替える年老いた馬子の顔を眺めているうちに、三次の心のなかに追っ手を振り切った安堵感が込みあげてきた。
長旅の疲れがめまいのように襲ってきた。
その場に倒れこみたい誘惑に抗うように、三次は胸いっぱいに息を吸いこんだ。
江戸の空気は甘酸っぱい花梨の匂いに満ちていた。
空をあおぎ、なにひとつ当てのないこれからの人生を思った。
眼球の付け根から水のようなものが流れてきた。
折しも、日本橋と高井土の中間地点の宿駅として内藤新宿が創設された、その明くる年である。
それからまたたく間に旅篭屋や茶屋が軒を並べはじめるこの土地は、六、七十年後には東海道の品川、日光街道の板橋、奥州街道の千住とともに江戸四宿のひとつに数えられるようになるが、三次が上京した当時はまだ武蔵野の野っ原の面影を色濃く残していた時代である。
羽織袴の役人、矢立てを帯にはさみ帳面片手にせわしなく歩きまわる下役、米俵や薪を積んだ荷車、牛の背にかけられた日除けのムシロ、それらを三次は初めて見るもののように眺めながらゆっくりと歩きすぎた。
茶屋から漂ってくる強飯の匂いが三次の胃袋を激しく収縮させた。
だが、わずかに残った銭をここで使ってしまうわけにはいかなかった。
店先の縁台では腹掛け道中差姿の飛脚がしたたか酔っぱらい、茶碗の酒を片手に身体をゆっくりと揺らしている。
三次の目は男の箸の先のさといもに釘づけになった。
飛脚がその赤らんだ顔を上げた。
「どこから来た」
三次が村の名を答えると、男は煮込みおでんの皿を差しだし、「ぜんぶ食え」と言った。
そして三次のみすぼらしい姿を─しらみの卵が白い粉を振りかけたように見える髪や、裸の胸にいまやわずかにこびりついているだけの合羽の切れ端や、野葡萄の蔓で補修したわらじなどー上から下まで眺め渡し、唇の端だけで笑った。
三次は異様に鋭い光を放つ男の白眼がちの目に恐怖を覚え、しばらくためらっていたが、やがてそれが斜視のためだと気づいて安堵し、そのありがたい施しを受けた。
かたわらの立ち木に吊るした大きな薬罐の下でかまどの火をおこしていた茶屋女が湯を入れてくれた。
三次は礼を言って、茶碗の熱い湯を飲んだ。
「おめえの村には行ったことがある」と男が言った。
「おめえぐらいの年のころに一度な。林檎の木がたくさんあった」
三次はさといもに食らいつきながら、林檎の木の下で交わったとき夢中で揉みしだいた
トヨの白い乳房を思い浮かべた。
「江戸ではなにをやっても食える。身体は丈夫そうだな」
「どんな仕事がある」と三次は訊いた。
「なんでもある。食っていくだけならなんとでもなる。俺に任せるか」
三次は大きくうなずき、よく汁を吸った大根にとりかかった。
飛脚は四十近くになるが独り者で、名は益吉といった。
益吉は昼も夜もなく飛びまわり、三日後の夕刻には四谷見附の鍛冶屋に三次の住みこみ先を見つけ、またその問の旅篭屋の宿代を三次の分まで立てかえるなど、じつの息子のように三次をかわいがった。
だが、益吉はその三日間を、三次の仕事を探すことだけに費やしていたわけではない。
仕事柄、彼はさまざまな土地で起きた事件をじつに詳しく仕入れていて、それらの情報を瓦版屋や書物問屋に売って金にする副業まですませていた。
三次は書物問屋の主人とあいさつをかわす益吉を見ながら、彼の頭の良さにすっかり感心していた。
それから二十年後、深酒のため三十九歳で死ぬことになる三次は、「さて、いつまでも休んでいられねえ。おめえもしっかり働けよ」と吾い残し、暮れかかる甲州街道を駆けだしていった益吉の後ろ姿を、死の床となった葦の茂る角筈の野っ原に横たわり、冷たくなっていく自分の身体を両腕で抱きしめながら、夢見るように思い出すことになるのだった。

(本文P. 5〜7より引用)



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