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今やこんなことになっている私だが、誕生以来こんな有様だったわけではないということをまず申し上げたい。
生後間もない頃の私はむしろ純粋無垢の権化であり、光源氏の赤子時代もかくやと思われる愛らしさ、邪念のかけらもないその笑顔は郷里の山野を愛の光で満たしたと言われる。
それが今はどうであろう。
今の私が笑っても、そこにはメフィストフェレスのごとぎ不吉な笑みがあるだけだ。
鏡を眺めながら怒りに駆られる。
なにゆえお前はそんなことになってしまったのだ。
これが現時点におけるお前の総決算だというのか。
まだ若いのだからと人は言うであろう。
人間はいくらでも変わることがでぎると。
そんな馬鹿なことがあるわけがない。
若人を甘やかしてはならない。
ただでさえ三つ子の魂百までと言うのに、当年とって二十と一つ、やがてこの世に生をうけて四半世紀になんなんとする立派な青年が、いまさら己の人格を変貌させようとむくつけき努力を重ねたところで何となろう。
すでにこちこちになって虚空に屹立している人格を無理にねじ曲げようとすれば、ぼっぎり折れるのが関の山だ。
お前はいまそこにある己を引ぎずって、生涯をまっとうせねばならぬ。
その事実に目をつぶってはならぬ。
私は断固として目をつぶらぬ所存である。
でも、いささか、見るに堪えない。
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大学三回生の春までの二年間を思い返してみて、実益のあることなど何、一つしていないことを断言しておこう。
異性との健全な交際、学問への精進、肉体の鍛錬など、社会的有為の人材となるための布石の数々をことごとく外し、異性からの孤立、学問の放棄、肉体の衰弱化などの打たんでも良い布石を狙い澄まして打ちまくってきたのは、なにゆえであるか。
責任者に問いただす必要がある。
責任者はどこか。
ことさらに彼らの罪過を暴き立てるのは、高潔な私の流儀に背く行為であるし、私もでぎるならば彼らを暦めずにやり過ごしたい。
しかし高潔なるがゆえに、この許すべからざる行為を見過ごせない。
かくも高潔な私が敢えて責任転嫁するのだから、彼らの責任の重さたるや推して知るべきであろう。
今やにっちもさっちもいかなくなってしまった私のアイデンティティー形成に関与したと非難されて然るべぎ者とは、映画同好会のちゃちなカリスマ城ヶ崎先輩、先輩を崇拝して付ぎ従う有象無象ども、そして何を措いても、唾棄すべき親友たる小津である。
さて、それでは社会的有為の人材となるための布石を打つ代わり、その二年というものお前は何をしていたのかと問われれば、隠すことなく申し上げよう。
私は人の恋路を邪魔していたのだ、と。
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人の恋路を邪魔するものは馬に蹴られて死んでしまう運命にあるというので、私は大学の蓼々たる北の果てにある馬術部の馬場には近づかないことにしていた。
私が馬場に近づけば、猛り狂った荒馬たちが柵を越えて襲いかかって来て、よってたかって私を踏みつぶし、すぎ焼きの具にもならない汚い肉片に変えてしまったことであろう。
同様の理由によって、私が京都府警平安騎馬隊をひどく恐れたことは言うまでもない。
なぜそれほどまでに馬を恐れなければならなかったかと言えば、私が知らない人も知っているほどに悪名高い、恋ノ邪魔者であったからである。
まさに死神のいでたちをした黒いキューヒッドのごとく、恋の矢のかわりにマサカリを振るって、赤外線センサーのように張り巡らされた運命の赤い糸を、切って切って切りまくったのである。
その所業のために、若き男女が大盟六つ分の苦い涙を流したという。
非道の極みである。それは分かっている。
恥ずかしながら、大学に入る直前には、ひょっとするとあるかもしれない異性との薔薇色の交際にむけて軽い武者震いをしたこともある。
「俺は決して野獣のようにはなるまい、清く正しく紳士的に、麗しの乙女たちと付き合って行こう」と決心を固めもした。
入学後数ヵ月を経ずして、そのような決心を強いて固める必要がなかったことが判明したわけだが、その経緯はまあ今はよかろう。
いずれにせよ、理性を放擲して結びつかんとする男女を大目に見てやるぐらいはでぎたはずなのである。
それがいつしか、心の余裕を失い、ほころびた赤い糸の切れる音を耳にするたびに言いしれぬ愉悦を感じる極悪人へと転落した。
怨みの涙と千切れた赤い糸が溢れる隆路に踏み込んだのは、決して私のせいではないということを申し上げたい。
こんな悪行に手を貸し、十数人に余る男女を弄んだのは、宿敵であり盟友である唾棄すべぎ一人の男の手引きによるものである。
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