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 さくら伝説
著者
なかにし礼/著
出版社
新潮社
定価
税込価格 1890円
第一刷発行
2004/03
さくら伝説 なかにし礼/著 新潮社 e-honからご注文 画像
ISBN 4-10-445106-1
 
たとえ命が尽きようと、決してあなたを離さない――人の命を吸って乱れ咲く千年桜に魅入られた男と女が辿る激情の道行きを描いた、著者渾身の新境地。
 
さくら伝説 なかにし礼/著 新潮社

さくら伝説 なかにし礼/著 新潮社 本の要約

貞淑な妻と穏やかな生活と年若き愛人との濃密な情事を手にした瞬間、人生のカウントダウンは始まっていたのか―死を覚悟しながらも、官能と恍惚を求める男の性。生と死の狭間にしか存在しない悦楽の先に待っていたものは…。文学史上かつてない、桜をモチーフに日本人の深層心理をえぐった究極の官能世界。



さくら伝説 なかにし礼/著 新潮社 オススメな本 内容抜粋

プロローグ

一番好きな花はなにかと訊かれたら、ためらうことなく桜と答えるが、花を追いかけて旅をするほどの趣味は持ち合わせていなかった。
そんな私が、その桜を見るためにわざわざ列車に乗ったのは、思えば奇妙なことだった。
その桜のことは、写真で見たり書物で読んだりして以前から気に掛かっていた。
千年桜といわれる老木でありながら、今なお堂々と満開の花をつけるという。写真で見ても、その姿は美しい。
しかしいかに想像力を駆使してみても、実際の大きさが掴みきれない。またその桜には不思議な言い伝えがあるらしいが、伝説を生むほどの神秘的な雰囲気は、やはり写真からは伝わってこないのである。
今年こそ今年こそと思いつつ何年も過ぎた。時が経つにつれて私の思いは深まった。
それは恋にも似た気持だった。おとぎ話の主人公たちは、絵姿を見ただけで恋に落ちたというが、私も写真を見てその桜の花に恋をしていたらしい。
その春、その桜に逢うための旅にやっと出ることができた。
朝九時、東京から新幹線で京都へ。
京都から近鉄京都線と橿原線を乗り継いで大和八木駅へ、そこで大阪線に乗換え榛原駅へ。駅前からバスで伊勢街道を十五分ほど走る。
高井バス停で下車。
室生寺につづく山道を水田風景を左右に見ながら四十分近く歩き、ゆるやかな坂道にさしかかったところで、ようやく仏隆寺という寺を前方にのぞむことができた。
小高い丘の上で、私がめざす千年桜は、両手をひろげ仁王立ちしていた。
あたりの桜を圧倒する大きさと美しさだった。
腕時計を見ると午後二時。よく晴れた日だった。
室生寺の南大門である摩尼山仏隆寺は、嘉祥三年(八五〇年)空海の高弟堅恵が創建したもので、百九十七段の古さびた石段を持つ風情ゆかしい山寺であった。
その石段を中程まで上ったところに、千年桜は立っていた。
樹齢九百年を超えるヤマザクラの巨木は見事というか、なんとも凄いものだった。根回り七.八メートルという根株そのものが地上に露出している様は怪異であり、その根株が地上ニメートルのところで蝦の足のように大小十一本に分岐している様はさらに異様であった。
四方に枝を拡げた差し渡しは二十メートル以上。奈良県下最古最大の桜であり、天然記念物である。
桜の樹には桜鬼という魔性の女が棲んでいて、その鬼が人の心を狂わせるのだと言われているが、この巨大桜の前に立っていると、そんな迷信を生んだ昔の人々の気持がよく分かる。満開の花をつけたこの桜は、この世のものならぬ桜鬼そのものが大地を切り裂いて地上に姿を現し、その薄紅色の裸身をさらしているかのようだった。

願はくは花の下にて春死なむ

その如月の望月のころ

と詠み、文治六年二一九〇年〉二月十六日、釈迦入滅に一日遅れて死んでいった西行も、たぶん桜鬼に魅せられていたのだろう。
「吉野山去年のしをりの道かへてまだ見ぬかたの花をたづねむ」と、詠った西行である。
室生寺への道すがらこの寺に立ち寄り、この桜をめでたにちがいない。八百年前のことだから、桜の姿形はもっと若々しかったかもしれないが……。
この千年桜が見下ろしてきた時間の長さと重さを思い私は気が遠くなった。
見上げれば、桜がささやきかけてくる。
桜が手招きをする。桜にたぐり寄せられる。
桜がおおいかぶさってくる。こちらの呼吸が乱れてくる。
息苦しさに立ち去ろうとすると、桜は妖しく鳴咽する。
体にまとわりつく桜の霊気をようよう断ち切って石段を下ろうとした時……、花のむこうから女がやってきた。
黒いコートを着た女が、満開の桜の花の下をくぐり、石段をゆっくりと上ってくる。
青い空、薄紅色の桜花、そして緑の山々に、黒いコートはなにかそぐわなかった。いや、むしろ不吉な感じさえした。私はかすかに身をふるわせたが、それは恐怖のせいだったかもしれない。
女は千年桜の根元まで来ると、立ち止まり、花を見上げた。
白い顔に花影が揺れた。整った顔立ちの女だった。
その顔に見とれたまま、私はふらふらと石段を下りていった。
自分の意志とは関係なく、見えない糸に操られ、私は女のほうへと近付いていった。
女はじっと花を見上げている。まるで私がそばへ来るのを待っているかのように。
「この桜を見るのは初めてですか」
私の口からそんな言葉がこぽれ出た。
女は振り向くとやわらかい笑みをうかべ、
「ええ、初めてです」
年齢は二十歳前後か。
思ったよりもはるかに若そうだ。
「ぼくも初めてなんですけど、凄い桜ですね。凄いとしかいいようがない」

(本文P.5〜7 より引用)


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