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 輪違屋糸里 上
著者
浅田次郎/著
出版社
文芸春秋
定価
税込価格 1575円
第一刷発行
2004/05
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ISBN 4-16-322950-7
 
運命の糸に操られた男と女、京の闇に死の衣をまとう者たちがさまよう。浅田版新選組。 島原の芸妓・糸里は土方歳三に密かに思いを寄せていた。2人の仲を裂こうとする芹沢鴨には、近藤派の粛清の白刃が迫りつつあった。
 

本の要約

百三十万部を超えるベストセラー『壬生義士伝』から四年。芹沢鴨暗殺の真実に迫った、浅田版新選組第二弾の登場です。六つで花街・島原の輪違屋に売られた糸里は美しい芸妓に成長した。日に日に対立の溝が深まる近藤派と芹沢派。両派の和解に自分を利用しようとする土方歳三に翻弄される糸里は、いつしか新選組の運命に寄り添っていく……。連載終了後、多摩に住んでいた浅田さんの曾祖父が天然理心流を習っていたことも判明。骨の髄まで新選組にどっぷりとつかった最高傑作です。



オススメな本 内容抜粋

忘れようにも忘られぬふるさとの景色がある。
浜辺の松林に粗末な小屋があって、板敷に膝を抱えて座ると、開かれた引戸の向こうの海が、そのままひとひろの軸絵になった。
松風の騒ぐ日にも、若狭の湾はわずかに細立つほどであった。
猛くうねる波の姿など、いとは見たためしがなかった。
三畳ばかりの板敷の四方には注連縄が続っており、誰がそうするものやら、いつも真新しい幣がみっしりと張られていた。
引戸を開け放したまま裏の摸窓を上げれば、たちまち心地よい浜風が抜けて、幣をからからと鳴らした。
杉の丸柱にもたれて小さな膝を抱え、風を聴きながら閑かな海を見ていると、折鑑を受けた体の痛みも、親のない子の悲しみも、たちまち癒えた。
生まれ育った小浜のふるさとを、つとめて忘れようとしたわけではない。
忘れよと言った養い親の顔を、まずまっさきに忘れた。
もっとも、女衝に買われて京に上ったのは算えの六つの齢だったのだから、いつまでも胸にとどめている浜小屋の記憶のほうが、むしろ不自然なのかもしれない。
小浜から京に至る道は、雪の峠越えであった。寒さと足の痛みと、何よりも心細さに泣き泣き歩むいとの手をひきながら、「京は遠ても十八里」と、老いた女街はあやすように唄った。
背負われた憶えはないから、その十八里の道を、六つのいとは歩き通したのであろう。
京には海があるのかと、みちみち女街に訊ねた。
海があれば松林の中には浜小屋があり、それさえあれば生きていけると、いとは考えたのだった。
「京に海などあるかいな。ほれ、見てみい。せやから背持人が十貫目も鯖を背負うて、夜通し歩かなならんのんや」
背にした荷を軋ませて、屈強な人足がひきもきらさずにいとを追い越していった。
島原の大門をくぐったのは、風の温い午下りであった。
「おことうさんどす。小浜から可愛らしいお子オをお連れしましたえ。おかあさん、おいやすか」
輪違屋の台所に入ると、女街はうって変わった猫撫で声で人を呼んだ。やがて、老いたなりに背筋の伸びた女将が奥から出てきた。
「おっきな声で小浜から何やからと言わんといてんか。島原の禿は京生まれの京育ちいう、昔からのきまりごとやし」
女街は式台に腰を下ろすと、いとの綿入れの肩に手を置いて、さも自慢げに言った。
「おいと、いいますねん。養い親が言わはるのには、母親いう人は小浜小町なんぞと呼ばれた別籟やったそうどすけど、この子オを産み落とすとじきに亡うなってしもたんどすわ」
「へえ、さよか。そらまた不欄なお子オやな。ほんで、てて親は」
まるで品定めでもするように、女将は畳敷きの上がり権に座りこんで、目の高さにいとを見つめた。
そのまなざしが怖ろしく思えて、いとは太い梁に支えられた高天井を見上げた。
煙出しから射し入る光の帯の中に、いとは仔んでいた。
「そのあたりはまあ、わてが塩梅よう作り話をさしてもろてもええんどすけどな。小浜藩の名のあるお侍の落とし胤やとか」
「あほらし。しょうもないこと言わんとき」
「せやから、包み隠しのないとこ言わしてもらいますのや。養い親も誰も、この子オのてて親は知らへんのどす。ただ、母親が好いたお人の子オやいうことだけで」
「なんや、話にもならへんやないの」
降り落ちてくる冬の光に、いとは目を細めた。おくどさんから盗れ出る煙が、四角く切り取られた空に立ち昇っていく。
「小浜には子を産むための産屋がありますのんや。浜辺の松林にある小屋にこもって、子オを産まはって、肥立ちのようなるまで、母親は子オと過ごさはるそうどす」
「へえ、けったいなならわしやね」
「ほんまにそうどすわ。ほんで、母親はこの子オをひとりで産まはって、何日かは遠縁にあたる養い親が、三度の飯も運んだはったそうどす。そうこうするうちに、ある朝お子オを抱いたまま亡うなってましてな。親からもろたもんは、おいという名アだけの、不欄な子オどす」
「そらまあ、しんどい話やな。禿にならはるのやったら、その親からもろた名アも捨てななりまへん」
いやや、といとは煙出しを見上げたまま言った。
さだめを拒んではならぬことはわかっていた。
すべてを受け容れねば、このさき生きてはいけぬとも知っていた。
それでも、体が口をきいてしまったのだった。
「おかあちゃんからもろた名アは、堪忍して下さい。何でもしまっさけ、堪忍して下さい」
身を陳わせてそう言ったきり、いとは光を仰いで泣いた。
おのれの意志を、年端もいかぬ子供がそうまではっきりと口にするのは、よほど思いがけなかったのであろう。しばらくの間、女将も女街も、立ち働く女たちも、じっといとを見つめていたように思う。
「気丈なお子オや。いずれええ太夫にならはりますえ。せえだいお気張りやっしゃ」
糸里という名は、女将の情けであった。
母から貰った名を奪われることなく、いとはその日から、輪違屋の糸里と呼ばれるようになった。

(本文P. 3〜7より引用)


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