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 スイートリトルライズ
著者
江国香織/著
出版社
幻冬舎
定価
税込価格 1470円
第一刷発行
2004/03
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ISBN 4-344-00488-4
 
「恋をしているの。本当は夫だけを愛していたいのに。」家のなかには、甘く小さな嘘がある。大切なのは日々を一緒に生きること――。新・直木賞作家が満を持しておくる、傑作長編、待望の最新作。
 

本の要約

一日のはじまり。この日常に不満はない、と、瑠璃子は思う。淋しさはたぶん人間の抱える根元的なもので、聡のせいではないのだろう。自分一人で対処するべきもので、誰かに―たとえ夫でも―救ってもらえる類のものではないのだろう。でも、と、聡の好きな桃をむきながら瑠璃子は考える。でもそれなら、春夫といるときに淋しくないのは一体どういうわけだろう。あんなにみちたりてしまうのは。



オススメな本 内容抜粋

まだ学校にいっていたころ、家庭科は決して得意ではなかった、と、オレンジの皮を入れた紅茶をのみながら、岩本瑠璃子は考える。
だいたい教師がいけすかなかったのだ。
瑠璃子は人の好き嫌いがはげしい。
そして、決して得意ではなかったその家庭科の授業で習ったことで、忘れられないことがしかし一つだけあった。
ソラニンだ。
じゃがいもの芽には毒があり、その毒はソラニンという名前だ、と、そんなふうに教わった。
どのくらいたくさんの芽が必要だろう。
クッキーを一口かじり、瑠璃子は考える。
台所の隅に置かれた段ボール箱をちらりと見た。
じゃがいもは、夫の郷里の帯広から毎年届く。
茄でたり焼いたり揚げたり煮たりつぶしたり、ニョッキやパンケーキまでつくって食べても、夫婦二人では食べきれなかった。
ごつごつした小ぶりのじゃがいもは、まだ二十やそこらは余っているだろう。
そのうちのいくつかは、そろそろ芽が出始めていた。
「でも、瑠璃子さんが家庭科苦手だったなんて意外」
両手でティカップを包むように持ち、小首をかしげて藤井登美子が言った。
「うん、絶対意外」
瑠璃子は、
「そう?」
とかすかに微笑んだだけでまたぽんやりした顔になり、じゃがいもの芽について夢想する。
つくだ煮がいいかもしれない。
砂糖としょうゆで煮つめればいい。
夫はいつもうちに帰って夕飯を食べるし、瑠璃子のだしたものなら何でも食べる。
「じゃあ、そろそろ私、失礼しますね」
登美子が立ち上がり、オーバーコートを着た。
「撮影は十九日ですからね。一時にカメラマンと一緒にうかがいますから、忘れないで下さいね」
「大丈夫」
瑠璃子はうけあった。
「クッキーすこし持っていく?」
「嬉しい。いいですか?」
瑠璃子はテディベア作家だ。学生時代に始めたベアづくりはただの趣味のつもりだった
が、好きな気持ちが高じて一年問イギリスに遊学し、帰国後頼まれてグリーティングカー ドの表紙や宣伝写真用に貸しているうちにすこしずつ評判が広がった。小さな展覧会をひらくようになり、瑠璃子のベアを欲しいという人はびっくりするほどたくさんいて、すべて注文をうけてからつくるかたちをとっているのだが、いまでは助手を三人使っていても問に合わないほどだった。
登美子の雑誌で特集を組まれたことも人気をあおった。
去年から、表参道のファッションビルの地階に常設のコーナーもできた。
さらに、瑠璃子は紅茶とお菓子の研究家;無論本人は研究している気などさらさらないのだが─としても、雑誌を中心にそこそこ名前を知られるようになっていた。
無理心中ということになるのだろう。
玄関で登美子を見送って、ドアに鍵をかけてリビングに戻りながら瑠璃子は考える。
二人で仲よくそのつくだ煮を食べ、二人で仲よく死んだらそれはつまり無理心中ということになるのだろう。
暖房のせいで、空気がひどく乾燥してよどんでいた。
瑠璃子は首に衿巻をまきつけてから窓をあけた。
十二月の空はうす青く暮れかかり、つめたい風が、ベランダで育てている鉢植えのハーブの葉をふるわせている。
真下にみえる街路樹はすっかり裸で、寒々しく枝をとがらせていた。
衿巻は夫のものだ。
手ざわりのいいグレイのアルパカで、端に、アルマー二と刺繍され
た小さなタグがぬいつけてある。瑠璃子は、そのいささか長すぎる衿巻をぐるぐると幾重
にもまきつけたまま、食器を台所に運んで洗い始める。
残りのじゃがいもがすべて発芽するのに、あとどのくらい時間がかかるだろう。
岩本聡は十代のころから早婚願望を持っていた。
落ち着きたかったのだ。
すこしでもはやく。
二十五歳で結婚した。三年前だ。
仲間内では早婚の部類で、よく考えろなどと言う輩もいたが、聡は結婚を後悔したことは一度もなかった。
ただ、と、混んだ地下鉄に揺られながら聡は考える。
ただ、彼女の情熱にはときどき参る。
情熱。
それもきわめて内向的な。
たとえば、この三年間、聡は浮気をしたことなど一度もなかったし、疑われるようなことをした憶えもない。
しかしそれにもかかわらず、もしもあなたが浮気をしたら、私はその場であなたを刺す、と、妻はたびたび宣言している。
電車の扉窓の闇に、色白で童顔の、自分の顔が映っている。
妻の瑠璃子とは、飛行機のなかで知り合った。
学生生活最後の休暇旅行でヨーロッパにいった帰りの飛行機で、座席が隣りあわせになったのだ。聡の方から話しかけ、最後はかなり強引に連絡先をききだした。好みに合っていたのだ、ものすごく。
瑠璃子は聡より二つ歳上なので今年三十だが、その年齢よりもやや上に見える。
無邪気さの代りに思慮深さを身につけているような女。
聡はかつて友人にそう説明したことがある。
要するに、大人びた態度に惹かれたのだ。聡の苦手な「女くささ」が、欠けているところもよかった。
化粧気がなく、たいていジーンズにスニーカーをはいている。

 

(本文P. 6〜9より引用)


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