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 枕草子REMIX
著者
酒井順子/著
出版社
新潮社
定価
税込価格 円
第一刷発行
2004/03
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ISBN 4-10-398504-6
 
随筆の原点『枕草子』をリミックス。あなたや私ソックリな1000年前の都会の30女・清少納言との架空対談あり、絶妙な意訳あり。随筆一筋20年の著者が放つ快作。
 

本の要約

自覚たっぷりの意地悪、いっそ潔いほどの悪口、ミーハーで無邪気なモテ自慢、ミもフタもないブス嫌い、もう誰も止められない男非難…そしてぽろりと見せる女心。清少納言との架空対談あり、痛快な意訳あり、観光案内あり。

リミックスものづくし(「女同士」というもの;「男」というもの;「キャリア」というもの;「待つ」ということ;「イベント」というもの ほか);枕草子観光(清水寺;下鴨神社;逢坂の関;伏見稲荷大社;長谷寺 ほか



オススメな本 内容抜粋

はじめに

春は、あけぼの。
やうやう白くなりゆく山ぎは、すこしあかりて、
紫だちたる雲の、細くたなびきたる。(第一段・冒頭)
(春は、夜明け。だんだん白んでくる山近くの空が、少し明るくなって、紫がかった雲が細くたなびいてるの。)〈著者訳〉

枕草子と聞いて思い出すのは、誰もが古文の授業で習ったこの一節でありましょう。
「山ぎは」、すなわち「山際」とは、山と接している辺りの空のことで、「山の端」は空と接している辺りの山のことを言う、なんて教わったことを憶えている方も、いるかもしれません。
第一段を読んでいると、春の夜明けも夏の夜も、秋に雁が列になって飛んでいるのも冬の早朝も、そりゃあ「いとをかし」だったのでしょうねえ…。
と思うわけですがしかし、枕草子はそれだけで終る本ではありません。
というより全二百九十八の章段に付属段二十七本という全貌を見渡してみると、第一段の印象とは全く異なる、今の時代に生きる私達が深く「そうそう!」とうなずくことができるエッセイ集なのです。
かく言う私も、枕草子の全文を読んだのは、実は三十代半ばになってからです。
清少納言といえば、随筆家の祖。私も随筆を書くことを生業としてきた人間であり』度は読まねば」とは思っていたものの、若いうちはどうも面倒臭く思っていた。
ところが一度読み始めると、「わかるわかる!」「あなたもそうだったの?」の連続で、「清少納言とは絶対に気が合う!」と確信。
さらには、清少納言が私よりちょうど一千歳年上である
こと(彼女は、九六六年頃の生まれ。私は一九六六年生まれ)、彼女が枕草子を完成させたのが今の私と同じ年頃であったことなどもわかり、すっかり枕草子に魅了されてしまったのです。
古文の教科書において、第一段以外の場所が紹介されていたら、私はもっと古文が好きになっていたかもしれない。そして、通知表に古文の成績として「5」(十段階評価)などもらわなかったかもしれない。
……と、そんな積年の思いをも込めて、この本においては、枕草子の教科書に載っていた部分以外の面白さをご紹介できればと思っています。してその方法は、音楽用語で言うところの、リミックス。
章段を超えて再び混ぜたり集めたりしてみることによって、清少納言の人となりも、理解できるような気がするのです。
本文中には「原文で読んでみよう!」コーナーや、プチコラム「清少納言おまけの一言」がおりまぜてあります。
拙訳と見比べつつ、往時の雰囲気を感じていただけたらと思います。
リミックスにあたっては、当の清少納言さんご本人にも千年の眠りから醒めていただき、随時お言葉をいただくことにしています。
ではまず、よりリミックスを楽しんでいただくために、清少納言及び枕草子の基礎知識をご紹介することにいたしましょう。
清少納言・プロフイール
本名不明
九六六(康保三)年頃、平安京生まれ。没年不明。
父は清原元輔、
母は不明。清少納言の「清」は清原の「清」。「少納言」は、清少納言が過去に関係していた誰かの役職とされていますが、それが誰かは不明。


清少納言・ライフヒストリー

清原家は当時、権力の座から遠ざかっていた、言わば中下流の貴族。
清少納言の父・元輔も、歌人としてはまあまあの名声があったものの、役人(貴族男性は基本的に全員、今でいう国家公務員)としてはさほど出世していません。
清少納言は、元輔が五十九歳の時に生まれた子供です。
歳をとってから生まれた末娘ということで、かなり可愛がられて育ったことは想像に難くなく、漢学の教養などは父親から授けられたものであると思われます。
子供の頃、父親について地方で暮らす経験もした彼女は、十六歳頃に橘則光と結婚。
翌年、一男則長を出産していますが、やがて則光とは離婚しました。
離婚後、どこかの上流貴族の家へ出仕したものと推測されます。
二十五歳の頃、父・元輔は八十三歳で任地の肥後で亡くなります。
清少納言はその後、父娘ほど歳の違う藤原棟世と再婚し(初婚は上流貴族の若者と、そして再婚は経済的に安定したオヤジと、というのが当時のパターンとしてあったらしい)、一女小馬命婦をもうけます。
そんなところに舞い込んできたのが、一条天皇(在位九八六〜}〇二年)の中宮(后)である定子お付きの女房として出仕するという就職話。二十八歳前後であった清少納言は、オヤジとの結婚生活に飽き足らないものを感じていたのでしょう、その話を受けて宮仕えを始めました。ちなみに定子は、当時の関白・藤原道隆の長女という当代随一のお嬢様です。
宮仕え生活は、清少納言の性格に合いました。宮廷の華やかな暮らしの中に自らの身を置き、セレブ達との交流も生まれる中で、彼女は持ち前の才気と明るさを発揮し、名物女房となっていったのです。
枕草子を執筆したのも、その宮仕え期間中であると思われます。
その華やかな定子サロンに暗雲がしのび寄ったのは、九九五(長徳元)年のこと。
定子の父.道隆が、病で亡くなったのです。
定子の兄・伊周は、道隆の末弟・道長により左遷、逮捕。
道隆の死により定子の立場はにわかに不安定なものとなり、九九九(長保元)年には道長の長女.彰子が、十二歳にして一条天皇に入内。
彰子が中宮、定子が皇后という異例の事態となったのです。
ちなみに、彰子に仕えた女房の一人であったのが紫式部です。年齢は清少納言の方が七〜八歳上であったものの、二人はその立場からして、宿命のライバル関係にあったのです。
時は、権力者が自分の娘を天皇に嫁がせ次代の天皇を産ませることによってより強大な権力を得るという、外戚政治の時代。
平安時代随一の栄華を誇った道長の時代は、ここに始まりました。
道隆絶頂時代から道隆没後の不遇時代へという背景の変化があったことを考えながら枕草子を読むと、一つ一つのエピソードが、よりリアルなものとなってくるかと思います。
失意の中、一〇〇〇(長保二)年、定子は出産の後、二十四歳で没します。
定子をこよなく慕っていた清少納言は、宮仕えを辞しました。時に清少納言、三十五歳。おそらくは老夫・棟世の許に戻ったのでしょうが、その後の彼女の暮らしぶりは、はっきりとはわかっていません。

(本文P. 9〜13より引用)


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