１ポンドの悲しみ　石田　衣良　著　ＢＯＯＫＳルーエのＮＥＴ通販

　１ポンドの悲しみ

著者	石田　衣良　著
出版社	集英社
定価	本体価格　1500円＋税
第一刷発行	2004/03
	ISBN 4-08-774689-5

ふつうの恋のちいさな花火　ささやかで切ない　恋の瞬間１０シーン

「今日はわたしにさせて」離れて暮らす恋人が、ホテルの一室で男の前にたたずんだ……（表題作）ほか、愛に迷う女性たちのときめきと揺らぎを描く10篇。直木賞作家が放つ傑作恋愛小説集。

オススメな本　内容抜粋

「どうして名前ってこんなにたくさんあるのかな」
ため息をつくと、柴田朝世はサプリメントの棚で立ちどまった。
ショルダーバッグからビジネス手帳を取りだし、製品名を書きとめる。
アミノエナジー、健痩美嬢、ネイチャーライン。
「それは朝世みたいな仕事をする人間がたくさんいるからだろ」
生ビールで頬を赤くした間山俊樹が、力ートを押しながらスープ缶の角を曲がってきた。
朝世は俊樹の相手をせずに水性ボールペンを走らせた。
ネーミング専門のマーケティング会社で、今取り組んでいる栄養ドリンクの仕事に役立つかもしれない。いっしょに夕食をすませていたが、朝世はアルコールを口にしていなかった。
そこは恵比寿にある深夜営業のスーパーマーケットだった。
金曜日の夜十二時近くになっても、昼間のように買いもの客であふれている。
床の隅々まで蛍光灯の明かりで磨かれた、清潔でひどく冷房のきいた店である。
客は自分たちと同じで、落ち着いた雰囲気のカップルが多かった。
一般的な食材のほか、中クラスのワインと洋野菜の品ぞろえが豊富で、ふたりのいきつけのスーパーだ。
そこからなら歩いて十分ほどで部屋につける。
もっと近くに普通の店もあるのだが、新鮮なちりめんキャベツとベビーリーフとラディッキオがいつでも手にはいるこのスーパーが、朝世のお気にいりなのだ。
「そっちも卵と牛乳いるよな。買っておいたから」
口のなかでありがとうといって、ネイチャーラインの黄色いパッケージを手にした。長時間のＩＴ作業による視神経の疲労と肩凝りを解消する九種類のビタミン配合、あわせて美肌効果も。
朝世は力ートのなかにサプリメントの箱を放りこんだ。
「また栄養剤の衝動買いか。あきないね」
洗面台にはたくさんのサプリメントが並んでいた。
たいていはのみきることもなく賞味期限とともにゴミ箱いきになる。
朝世は力ートのなかをのぞくといった。
「自分だってお腹でるの気にしてるくせに、こんなの買って」
明日の来客用の食材のしたに、生麺タイプのカップラーメンが見えた。こってりトンコツ醤油味。俊樹は首をかしげた。
「あれ、いつのまにかはいってる。でもさ、酒のんだあとってラーメンくいたくならないか。ひと口あげようか」
朝世は首を横に振った。
そんな習慣は二十代の終わりとともに卒業している。
手帳をバッグにしまうと、レジにむかいながら考えた。
サプリメントと化粧品はよく似ている。
どれも効能だけ読むと素晴らしい製品に思える。
だが、つかってみるまでは決して自分の身体にあうかどうかはわからないのだ。
それだけでなく、どこかに自分のためだけにつくられた特別な一品があるはずだとおかしな期待を抱かせるところまで同じだった。
俊樹は棚からひと箱取り、朝世の背中に声をかけた。
「これなんか、どうなの。たべたあとでものむだけでスリムになるんだって」
朝世は振りむいて俊樹を見た。中堅どころの商社でも最近はカジュアルフライデーが一般的だった。
ダンガリーのシャツにべージュの綿パンツをあわせた金曜日の俊樹は、背が高いせいもあり、店のなかでは目立っていた。
「カロリーアウトでしょ。だめ、それぜんぜん効果ないよ」
朝世は俊樹に背をむけると、自分だけの考えにもどった。
サプリメントに似ているのは、化粧品より男のほうかもしれない。
三十をすぎると、化粧品はなくてはならないけれど、男はそれほどでもない。
期限がくるとゴミ箱に投げたり（投げられたり）するのも同じだし、あれこれと試してみたが決定的な一品と出会っていない気がするところまでいっしょだった。
「おーい、待って」
朝世は肩越しに後方に手を振った。俊樹といっしょに暮らして一年近くになる。
最初の燃えるようにたのしい数力月がすぎて、毎日は安定していた。
それでもこの生活がいつまで続くかは誰にもわからなかった。
俊樹が残りの一生をともにすごすベストの相手なのか、朝世には自信がもてなかった。
今はまだ見えないけれど、この恋にも賞味期限があるのかもしれない。サプリメントの箱の裏とは違い、男の背中には裸になっても恋の有効期限は印刷されていなかった。

（本文Ｐ. ７～９より引用）

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