紺極まる　長野まゆみ／著　ＢＯＯＫＳルーエのＮＥＴ通販

　紺極まる

著者	長野まゆみ／著
出版社	大和書房
定価	本体価格　1200円＋税
第一刷発行	2003/12
	ISBN 4-479-65008-3

希んではいけない。だけど本当に欲しいものは―　哀しみさえ甘美な十代の日々。

先生は真木のことを好きでしょう。なんとなくそんな気がする。希んでは不可ない。だけどほんとうに欲しいものは―。長野まゆみが描く、哀しみさえも甘美な十代の日々。

オススメな本　内容抜粋

二週間後に部屋の立ち退き期限が迫っても、川野はまだ転居先をきめられずにいた。
三月である。
予備校の講師という職が、彼に部屋探しの閑をあたえなかった。
いよいよとなって、勤務先の昼休みにイソターネットで物件情報を検索した。
運よく条件にかなう部屋を見つけ、迷わず中し込んで仮契約を結んだ。後口、業老の指定する口座へ敷金礼金と手数料、一ヵ月分の家賃、敷地内にある駐車場料金の振り込みをすませた。
川野の考えでは、これで万事片づいたはずだった。
引っ越し光日まで鍵を受けとる時間がなかった。もともと自分の車でこと足りるぐらいの荷物しかない。
家財道具のほとんどは、別れた妻の持ち分となった。
このところ、川野は自宅へ寝に帰るだけの生活をしている。
食事は外ですませ、風呂も銭湯へ行き、ついでに洗濯もする。車へ積みこんだなかでは寝具がもっともかさばる荷物だった。
彼は仲介業者の営業所へ車で乗りつけ、本契約を結んで鍵を受けとるつもりでいた。
だが、渋滞に巻きこまれて営業時間内に間にあわなかった。
担当者に電話を入れたものの不在だった。
というより、該当者がいなかった。かすかな不安が過った。
勤務先のファクシミリでやりとりする仮契約のまま放っておいたのだ。
再確認を台心った。支払いはすべてすませてあるのだから、契約は成立したとひとり極めした。
無情にも営業所のシャッターは下りていた。
川野は事実にたいして前向きな男である。
挫けずに対策を考える。ひるがえせば、なりゆき任せの傾向があった。
たいした運に恵まれもしないのに、用心に用心を重ねるという習慣がない。
非常時の備えもおろそかだ。
年の瀬に妻が離婚届けを突きつけて実家へ戻った。
この事態にいたるまで、川野はすべてが順調だと思いこんでいた。
妻とのあいだに、決定的な亀裂が生じるほどの衝突もなく、日常のささいな諦いにとどまっていた。
結婚して一年半、おおむね穏やかな日々を過ごした。
ふたり暮らしには少し賛沢な３ＬＤＫの家賃は共働きの妻との折半だった。
ひとりで支払うには負担が大きい。
そこで新たな部屋探しが必要となったのだ。
川野は鍵を持たずに仮契約を交わした部屋へ直行した。
まさか燈が点いているとは思わなかった。
家電量販店の大型トラックが今しも作業を終えて引きあげてゆく。
三階のその部屋までの階段をのぽりながら、川野は詐欺にあった可能性について考えた。
入居するはずだった部屋の扉はあけ放しで、玄関先にいくつかのダンボール箱が積んである。
事実を確認するつもりで、川野は奥に向かって声をかけた。
応対に出たのは無骨なメガネをかけた学生風の若い男だった。
フレームがやけに太く、目のまわりを黒々と囲むようすはまるで賞状を飾る額縁だ。
今どきそんなフレームを選ぶのは、よほどの消落老か外観に介意わない無頓着な者のいずれかだろう。
目の前の学生は、むろん後者でしかあり得ない。
メガネだけでも目立つうえに、その太すぎるフレームとも眉とも微妙にズレた中途半端な長さで前髪を切り揃えている。
予備校講師の川野は、今どきの学生と日常的に接する。
こんな髪型を選ぶ若い男がいるとは信じられなかった。
ああ、編されたんですね。
その契約は無効ですよ。
ここは一般の入居者の募集をしないんです。
おれの祖父の所有だから。
親族や縁故地縁の者だけに貸すんです。
川野は呆然と学生のことばを聞いたが、ここで引きさがるわけにはいかたかった。
すでに大金を支払っている。
それに今夜の宿がない。
川野は学生が閉めようとする扉を無理やり押さえた。
学生は厄介者のように川野を見る。
お気の毒ですが、おれにはどうしようもない。
あなたが契約した人間と話し合ってください。
……おそらく、すでに連絡は取れないと思いますけどね。
振り込み先も架空の口座でしょう。
今ごろは解約されていますよ。
消費者セソターヘでも相談なさったほうがいい。
ともかく、おれも息みたいんで、お引きとりください。

（本文Ｐ. 8～11より引用）

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