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 1421 中国が新大陸を発見した年
著者
ギャヴィン・メンジーズ/著 松本剛史/訳
出版社
ソニー・マガジンズ
定価
本体価格 1800円+税
第一刷発行
2003/12
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ISBN 4-7897-2166-3
 
1421年、世界を航海しコロンブスより70年も前に新大陸を発見した人物がいた。世界史を塗り替える壮大な歴史ノンフィクション。
 

本の要約

本書「日本語版へ寄せて」より
 コロンブスやマゼランより前に、世界をまたにかけた大航海をなしとげた人物がいる? わたしはあるとき、古い地図や海図をきっかけにその疑問を抱き、調べはじめた。そして、コロンブスの新大陸発見よりも七〇年前の一四二一年、明の永楽帝の命をうけた鄭和の船団が、世界一周をなしとげていた証拠にたどりついた。 鄭和の艦隊が世界に残した足跡は膨大なものだったが、それをひとつひとつ調べていくなかで、わたしは「日本」や「琉球」という言葉にもたびたび出合った。 本文ではとりあげることができなかったが、たとえば、ヴァスコ・ダ・ガマはインドのマラバル海岸に到着したさい、現地の人間から、七〇年も前に「八〇〇を超える大小の船が、さまざまな国の人々を乗せて、マラッカ、中国、琉球諸国からインドへやってきた……おびただしい数の人間があふれ、海岸沿いの町という町に住みついた」という。



オススメな本 内容抜粋

プロローグ

古地図に浮かぶ謎の島々

もう10年以上も前のこと、わたしは偶然に、ある信じられないような発見をした。
古い地図に隠されたその手がかりは、財宝のありかこそ教えてはくれなかったが、しかし何世紀にもわたって伝えられてきた従来の世界史の、根本的な書き換えを迫るものだった。
それ以前からわたしはあるものに夢中になり、その情熱の対象を追いつづけていた。
中世の歴史、とりわけ初期の探検家たちが残した地図や海図である。
そうした古い図を眺め、等高線や海岸線、移り変わる洲や砂噛の輪郭、危険な岩礁をたどったり、潮の干満や目に見えない海流の力、卓越風の道筋を追ったりして、そこにどんな意味が隠されているかをひとつひとつ解き明かしていくのは、何にもまさる楽しみだった。
最初にわたしを探索へと駆りたてたきっかけは、ミネソタ州の荒涼たる平原だった。
あれほどの衝撃を秘めた公文書が見つかるとはいささか考えづらい場所である。
しかしミネソタ大学のジエームズ.フォード・ベル図書館には、初期の地図や海図のすばらしいコレクションがおさめられていて、とりわけそのなかの1枚にわたしは注意をひかれたのだ。
それは一八世紀末に生まれた裕福なイギリス人収集家、サー・トマス・フィリップスのコレクションの一部だが、その存在は半世紀前にコレクションが再発見されるまでほとんど知られていなかった。
当の地図は一四二四年に作られたもので、ヴェネツィアの地図製作者ツアン・ピッツィガーノの署名があった(二九ニページの後のカラー口絵参照)。
ヨーロッパとアフリカの一部が表されていて、現代の地図と比較してみたところ、ヨーロッパの海岸線がじつに正確に描かれているのがわかった。
当時の地図製作としては並々ならぬ業績だが、そのこと自体にとりたてて重要性はない。
だがそのとき、わたしの目が地図の最も奇妙な部分に吸い寄せられた。
西大西洋のはるか沖のほうに、地図製作者は四つの島を描いていた。
そしてこんな名前が記されていたサタナゼ、アンティリャ、サヤ、イマナ。
どれも現在の地名とは一致しておらず、地図上のこの位置には実際には大きな島はひとつも実在しない。
経度の単純な計算ミスかとも思われた。事実、ヨーロッパ人は一ハ世紀にはいってしばらくたつまで、経度の測定というむずかしい技術を会得していなかったのだが、最初わたしの頭に戸惑いとともに浮かんだのは、また別の考えだった。この島は架空の、この地図を描いた人間の頭のなかにだけ存在していたものではないだろうか。
わたしは地図を見なおした。
四つのうち大きな二つの島は、目立つ色で塗られていたアンティリャは郵便ポストの赤、サタナゼは紺。地図のほかの部分は彩色されておらず、ピッツィガーノがこの二島を重要な、新しく発見されたばかりの島であることを強調しようとしたのにちがいなかった。
地図に記された名前はどれも、中世ポルトガル語のようだった。
アンティリャ Antilia「反対側の」の意の Antiと「島」の意のilhaは、ポルトガルから見て大西洋の反対側にある島という意味だ。
それ以外に、名前で手がかりになるものはなかった。
サタナゼ Santanazes ─ 「サタンの、すなわち悪魔の島」─ は、じつに際立った名前だ。
最大の島であるアンティリャには多くの町が描きこまれ、よく知られた陸地であることを示していた。
いっぽうサタナゼには五つの町の名があるだけで、何やら謎めいた8目と con と ymanaという文字が目をひいた。
わたしはすっかり興味をかきたてられていた。
これらの島はなんだろう?実在したものだろうか?この地図の日付、出所、信頼性は非の打ちどころがなかった。
もし本物だとしたら、従来の歴史に従うかぎりヨーロッパの探検家があと七〇年たたなければ乗り出していかないはずの場所に、製作者は島の存在を記していたことになる。
わたしは数力月かけて、地図室に所蔵されている地図や文書を調べていった。
やがてアンティリャとサタナゼは、カリブ海に実在する島、プエルトリコとグアドループだという確信が深まってきた。
どちらも偶然でかたづけるには、似通った点が多すぎた。
だとすると、コロンブスがカリブ海に到達する七〇年ほど前に、だれかがこれらの島を正確に測量していたことになる。
信じがたい新事実だった−新世界を発見したのは、コロンブスではなかったのだ。
コロンブスの航海はこれまでずっと、時代を画する出来事とみなされてきた。
それを境にヨーロッパは、ポルトガルに先導される形で続々と大航海に乗り出し、地理上の発見を重ねていった。
そしてこの長く休むことのない地の果てへの拡張は、その後の五〇〇年を特徴づけることになったのだ。
この発見を補強するためには、さらに多くの証拠が必要だった。
そこでわたしは、中世ヨーロッパの専門家で、当時ロンドンのポルトガル大使館に勤務していたジョアン・カミロ・ドス・サントス教授の助力をあおいだ。
教授はピッツィガーノの地図を念入りに調べ、わたしの訳した con/ymanaの意味を「火山が噴火する」と修正した。
この語はサタナゼの南部の、ちょうど現在のグアドループの三つの火山がある場所に記されていた。
一四二四年以前に、火山の噴火があったのだろうか?わたしは興奮しきってワシントンDCのスミソニアン協会に電話をかけた。
するとこれらの火山は一四〇〇年から一四四〇年にかけて二度噴火したが、それ以前の数百年間と、その後の二五〇年間は休止状態にあったとの回答だった。
しかもこの当時、カリブ海ではほかに火山の噴火はなかったという。
わたしはほっと胸をなでおろした。
ついに動かぬ証拠を見つけたと感じた。
コロンブスよりも六八年前に、だれかがカリブ海に到達し、知られざる入植地を築いていたのだ。
カミロ・ドス・サントス教授は、リスボンにあるトレ・ド・トンボ国立文書館の館長への紹介状を持たせてくれた。
ある晴れた秋の日の午後、わたしはポルトガルのだれかがカリブ海の島に上陸したというみずからの直感を裏づける証拠を求め、さらなる調査を開始した。
そして驚いたことに、目論見とは完全に反するものに出くわした。
ポルトガル人はカリブ海の島々を発見するどころか、ピッツィガーノの手で地図が作られていた当時は、そうした島の存在すら知らなかったのだ。
そのすこしあとの時期に作られた別の地図ーピッツィガーノではない、別の無名の製作者によるものーにもやはりカリブ海の島々が描かれているが、この地図がポルトガルに渡ったのは一四二八年のことだった。

(本文P. 14〜17より引用)


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