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 号泣する準備はできていた
著者
江国香織/著
出版社
新潮社
定価
本体価格 1400円+税
第一刷発行
2003/11
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ISBN 4-10-380806-3
 
濃密な恋と、絶望、そして優雅な立ち直り方。鼓動さえ伝わってくる、待望の短篇集。 
 

本の要約

体も心も満ち足りていた恋に突然訪れた破局、その絶望も乗り越えてゆくよすがを甘美に伝える表題作、17歳の思い出を振り返る「じゃこじゃこのビスケット」等、光を帯びた文章が描く、12編の物語。



オススメな本 内容抜粋

リムジンバスに乗るのはひさしぶりだった。
長坂弥生は二日前に電話で座席を予約した。
「空港までは通常一時間半で着きますが、渋滞にまきこまれる恐れもありますから二時間から二時間半みていただく方がいいと思います」
電話口で係員に言われ、午前七時十五分のバスを予約した。
アマンダの乗った飛行機が着くのは十時五分だから、これでちょうどいいだろうと思ったのだ。
四日間の有給をとるのは難しいことではなかった。
実績さえあれば会社は認めてくれるものだ、と、弥生は考えている。
学生時代に世話になったホームステイ先の娘が、夏休み を利用して日本に遊びに来るという。
東京に滞在するあいだは、弥生が泊めてやることになった。
あのころたった二つだったアマンダが、もう十九になるという。
新宿駅西口から発車するそのバスはがらがらに空いていて、弥生はいちばん後ろの窓際の席にすわった。
窓枠に日ざしが反射してまぶしい。
ほんとうのことを言えば、他人を泊めたりできる状態ではなかった。
弥生はため息をつき、目のまわりを軽くもんだ。
自分の指がつめたく思えた。
ゆうべ、夫が猫を捨ててしまった。
たっぷりと太った雑種の雌猫で、もう年をとっていたのに。
弥生が文句を言いかけると、夫は横を向いてしまった。
猫を捨てるなどという行為のために、傷ついたのは自分だとその顔が言っていた。暗い表情のまま、夫は弥生に背中を向けた。
猫は、夫の母親のものだった。彼女が入院することになり、三週間前に預かった。
母親の入院が、夫を打ちのめしたことは間違いない。
老人性痴呆症と診断された彼女は、たった三週間で四人部屋のボスになり、鮮やかな黄色のひまわりがプリントされたパジャマを着てかつらを被り、ベッドにすわってテレビを観ながら栗むしようかんを食べている。
「どこに捨てたの?」
弥生が訊くと、
「海に投げた」
と、夫はこたえた。
「どこの海?」
さらに問うと、
「どこだっていいだろう」
と、不快そうに言い捨てた。嘘に違いない、と弥生は思った。
いくらこの人でも、猫を海に投げるなんていうことを、ほんとうにはするはずがない、と。でも、それからすぐに自信がなくなった。
猫は現にいなくなっているのだし、夫に何ができて何ができないか、どうして自分にわかるだろう。
猫には、実際迷惑を被っていた。弥生はそもそも猫など好きではなかった。
「ぎんなんちゃん」と夫の母親の名付けたその猫は、弥生にも夫にもなつこうとしなかった。ベッドの中や、洗いたての衣類の山の上に粗相をした。
びっくりするほど大きなしゃがれ声で、十分以上も鳴きたてることもあった。
「探しに行かなきゃ」
弥生は言ったが、そのとき自分にその気があったのかどうか、弥生にははっきり思いだすことができない。
家の中は静かだった。
「どこに捨ててきたの?」
もう一度訊いたが、夫は返事をしなかった。
高速道路は空いていて、バスは快調に走った。
「早く着きすぎちゃうね」
ななめ前の座席にすわったカップルが、手をつなぎ合ったままそう言うのが聞こえた。
膝の上の鞄から、弥生は封筒を取り出す。
くせのある大文字の、青いボールペンで書かれた宛名。
裏には薔薇の花のシールが貼られている。
アマンダの写真を取り出して眺める。
二歳のころに会っただけなので、ほとんど初対面に近い。
でもきっとすぐに見分けられるだろう、と、弥生は考える。
鞄の中に封筒を戻し、窓の外を見る。
「どうして家に泊める必要がある?」
アマンダの母親から手紙をもらったとき、夫に話すとそう言われた。
「ホテルをとってやればいいじゃないか。その子だって、その方が気楽に決まってるさ」
そうかもしれない、と、弥生は思った。
そして、それでもどうしても、これは断るわけにいかないことのように思えた。
ケイトというのがアマンダの母親の名前なのだがは、弥生が娘を自宅に招くことを信じて疑っていないのだ。
十七年前に、自分が二年間も弥生に部屋を提供したように。
無論、決して安いとは言えない額の下宿代を払ってはいたし、学生だった弥生はしばしば留守番や子守りをさせられた。
でも、ケイトの頼みをきかないわけにはいかなかった。

(本文P.9〜13 より引用)

 

 

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