無名
著者
沢木耕太郎/著
出版社
幻冬舎
定価
本体価格 1500円+税
第一刷発行
2003/09
ISBN 4-344-00385-3
 
父が脳の出血により入院した。ゆっくりと、しかし確実に衰えてゆく父。無名の人の人生が幕を閉じようとしている……。自らの父の死を正面から見据えた書き下ろし長編作品。沢木文学の到達点。
 

一日一合の酒と一冊の本があれば、それが最高の贅沢。そんな父が、夏の終わりに脳の出血により入院した。混濁してゆく意識、肺炎の併発、その後在宅看護に切り替えたのはもう秋も深まる頃だった。秋の静けさの中に消えてゆこうとする父。無数の記憶によって甦らせようとする私。父と過ごした最後の日々…。自らの父の死を正面から見据えた、沢木文学の到達点。



1
不思議な一年だった。
その一年に至る何年かというもの、私にはスポーツにまつわる仕事が集中していた。
陸上の百メートルという競技とその歴史について調べ、ボクシングのヘヴィー級の世界タイトルマッチを繰り返し見にいき、夏季に開催されたオリンピックを最初から最後まで取材した。
今年こそはそれらを作品としてまとめ上げ、いちおうのけりをつけようと思っていた。
いわば、しばらくスポーツの世界から離れるためにスポーツを書くことに専念しようと思っていたのだ。
ところが、その思いとは裏腹に、その年はますますスポーツに搦め捕られていくことになってしまった。
つまずきのもとになったのは、二月に行われた長野の冬季オリンピックだった。
私にとってはさして強い吸引力があるイヴェントではなかったため、一種目か二種目ていどは現地で見るにしても、大部分はテレビ観戦で間に合わせるつもりでいた。
そこに、スポーツ新聞に勤める旧知の人物が現れ、長野に滞在してコラムを連載しないかと言ってきた。
一度はその場で断ったが、二度目に強く勧められたとき、ふと、やってみようかなと思ってしまったのだ。
私は、ノンフィクションの書き手として、スポーツについてもかなりの量の作品を書いてきた。
もちろん、スポーツライターを磨称するほどの専門的な知識はないが、興味の赴くままにいくつかのスポーツの世界とその住人たちを描いてきた。
しかし、書きはじめて二十五年以上にもなるというのに、スポーツ新聞に原稿を書いたことがたったの一回しかなかった。
それは、私の書きたいと思う対象の人物が、スポーツ新聞の一面を賑わすようた派手な選手ではなかったということが大きかったかもしれない。
だが、もちろん、それだけが理由とは思えない。
たぶん、私の書く生理が、見たり聞いたりした翌日には原稿を発表する、つまりは取材したものをその日のうちに書かなければならないというリズムに合わなかったからなのだろう。
そんな私が、冬季オリソピックの会期である二週間も続けて、その日のうちに原稿を書いて送ることを引き受けてしまった。
見たものを即座に書くというのは、一種のスポーツのようなものである。
もしかしたら私は、久しぶりに書く上でのスポーツをしてみたかったのかもしれない。
だが、正式に引き受けたあとで、果たして自分は締切り時間までに原稿を書き上げることができるだろうか、という不安が兆してきた。
遠い過去に経験した、たった一回のスポーツ新聞での仕事でも、締切り時間を前にして、書けないかもしれたい、という恐怖に近い思いを味わっていたからだ。
ところが、実際に冬季オリンピックが始まってみると、さまざまな会場で見たことを、その日の締切り時間までに書くことがさほど難しくなくなっていた。
翌日の朝刊に間に合わせるための
デッドラインは午後八時ということだったが、経験の力なのか、単に諦めがよくなっていただけ なのか、いずれにしても危倶していたようなことはまったく起こらず、一度も締切りの時間に遅れることなく十四回の責任回数をまっとうすることができた。
新聞社側の責任者からは、私が書けなかったときのために万全の対策を整えていたのに、いわばそのスクランブル態勢を一度も発動できなかったことが残念だった、と冗談を言われるほどだった。
冬季オリンピックが終わり、ひと息つき、さて本腰を入れてスポーツに関する著作の整理に入ろうとしていると、あるテレビ局からサッカーのワールドカップの仕事をしないかという誘いがかかった。
それは、コメンテーターとしてテレビに出演するという仕事だったために断ったが、その際、「では」と別の魅力的な提案がなされた。
若手のディレクターと一緒にフランスに行ってワールドカップの試合を見てこないか。
そして、すべてが終わった段階で、もしドキュメンタリー番組ができるようたら作ってほしい。
かりにできないと判断したら、それはそれでかまわない、というのだ。
私は迷った末にその誘いに応じた。
サッカーについて私はまったく素人だが、知りたいと思うことがないではない。
その一点から全面展開することができれば、何かができるかもしれない。
かりにできなくとも、二〇〇二年に日本と韓国で共催される予定のワールドカップを、よりよく見るための投資の時間と割り切ればいい。
そう考えたのだ。
五月末から七月にかけて、テレピ局の若いディレクターと共に二ヵ月ほどフラソスを転々とした。
帰ってくると日本は夏になっていて、結局、ひとつのテーマに沿って年末までに一本のドキユメンタリー番組を作ることになった。
すると、不思議なことに、夏から秋にかけて、立てつづけに親しい人が亡くなっていった。
新聞記者、編集者、弁護士、企業経営者……そのすべてが早すぎる死だった。
しかし、私はそうした大事な人たちの、どの葬儀にも出られなかった。
なぜなら、もうひとりの、そして私にとって最も近いひとりの死が間近に迫っていたからだ。
(本文P.6〜8 より引用)


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