デッドエンドの思い出
著者
よしもと ばなな 著
出版社
文藝春秋
定価
本体価格 1143円+税
第一刷発行
2003/07
ISBN 4-16-322010-0

 
人の心の中には、どれだけの宝物が眠っているのだろうか・・・。つらくて、切なくても、時の流れのなかでいきいきと輝いてくる一瞬を鮮やかに描いた5つのラブストーリー。「これまで書いた自分の作品の中で、いちばん好きです。これが書けたので、小説家になってよかったと思いました」(よしもとばなな)。
 

本書「あとがき」より
バロウズが「おかま」という小説を書いたときに「あんな痛々しい、不快な、心を引き裂く思い出を、どうしてあそこまで注意深くまとめあげなければならなかったのだろう」(『おかま』W・S・バロウズ著 ペヨトル工房刊より)と思ったことに似て、この短編集は私にとって「どうして自分は今、自分のいちばん苦手でつらいことを書いているのだろう?」と思わせられながら書いたものです。つらく切ないラブストーリーばかりです。多分、出産をひかえて、過去のつらかったことを全部あわてて精算しようとしたのではないか?と思われる(人ごとのように分析すると)。だから、なにひとつ自分の身に起きたことなんか書いていないのに、なぜか、これまで書いたもののなかでいちばん私小説的な小説ばかりです。読み返すと、人生のいちばんつらかった時期のことがまざまざとよみがえってきます。だからこそ、大切な本になりました。



「だったら鍋が食べたいけど、ひとりで家で食べてもつまらないから、せっちゃん、一緒に食べない?」
私は、単に「バイトの時いろいろかばってもらったから、お礼にバイト料で何かごちそうするよ。」と言っただけだった。
そして岩倉くんから帰ってきた返事はそれだったのだ。
一人暮らしの男の子にそう誘われた場合、どう受け取るべきかと私は迷った。
でも、彼のことだから、きっとそれは額面どおりの意味なんだろうなあ、それに、アパートも近いらしいし、と私は思った。
とにかく彼はさっぱりした顔で何の気なしにそう言っていたし、私の胸も少しもときめかなかった。
彼には不思議な、まるで真冬の曇った空のような中途半端な明るさと暗さがあり、なんとなくそれが私に、彼を好きになることをしり込みさせていた。
若い恋にはとても大切な、走り出したくなるような勢い、高揚感、それが全く感じられそうになかったからだ。
「じゃあ、作りに行こうか?」
と私は言い、淡々と日程が決まった。
私たちが通っている大学の、キャンパスに一本だけ生えている大きなけやきの木の下の、ベンチのところでだった。
私にはほとんど友達がいなかったし、その数少ない友達もバイトにせいを出して、あまり学校に来なかった。
それは私立のバカ大学によくありがちな状況だった。
なのでお互いにひとりで行動していることが多い岩倉くんと私は、自然に親しくなっていた。
彼とは、近所のパブみたいなところで私が友達の代わりにちょっとだけバイトをしていた時に知り合った。
彼はそこでバーテンのバイトをしていたのだった。
それからは大学で顔を合わせるたびに、ちょっとお昼を食べたり、しゃべったりする感じになった。
彼はこの町ではかなり有名なロールケーキの店の一人息子で、あとを継ぎたくないがためにものすごくがんばってきりつめてお金をためているという話だったが、彼の生活は実際にそういう感じだった。
大学時代にお金をため、自分で進路を決めないといやおうなくロールケーキを焼き続ける人生が待っている、そういうせっぱつまった感じがあ
った。
進路が決まっているもの特有のつらさが彼のバイト人生からはにじみでていた。
「いいじゃない、ロールケーキ、最古同じゃない。」
ロールケーキに目がない私は、そう言った。
「別にいやではないんだけれど、うちの母親は、ものすごいよくできたお母さんなんだよね。明るくて、感じがよくて、働き者で。」
岩倉くんは言った。確かに近隣の町で、岩倉くんのお母さんの明るさとか気の利きかたとかは有名だった。
あの感じのいい接客にうたれてついあそこで買ってしまう、という話もよく聞いた。
「僕……僕は本当に気のいい人間だと思うんだ。」
「知ってるよ。」
彼の気の優しさ、育ちのよさはいっしょに町を歩いているだけでよくわかった。
たとえば公園を歩くと、風に木がざわざわ揺れて、光も揺れる。
そうすると彼は目を細めて、「いいなあ」という顔をする。
(本文P.7〜9 より引用)


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