とるにたらないものもの
著者
江國 香織 著
出版社
集英社
定価
本体価格 1200円+税
第一刷発行
2003/07
ISBN 4-08-774656-9
 
物事はすべて あるがままで すでに 凝縮されている
 

小さな発見を愛おしむ江國香織的日常スケッチ。 ケーキの喚起する、甘くささやかな幸福のイメージ。全ての決心をもたらすお風呂。「生乳」を「なまちち」と読み、不快さゆえにヨーグルトを食べられなかった父のこと・・・。60の江國香織的日常、モダンとアンティークが絶妙に溶け合うシンプルライフストーリー。



緑いろの信号

信号の緑は青みがかった緑だが、たまに青くない緑の信号がある。歩行者
用の信号ではなく、三色の、車用の信号のなかにある。そういう信号の信号機はたいてい古ぼけているので、たぶん、型のふるいものなのだろう。すこし舐めて小さくなった飴玉のような、浅い感じの緑だ。
私はその緑の信号が好きで、ときどきとても見たくなる。
ただ、その信号がどこにあるのかわからないので、いくことはできない。普段、風景としてしか場所をみないのが悪いのだろう。私にとって街は風景と風景の整列したもので、その境目は、すべて電車やバスやタクシーがつないでくれている。
これはもうどうしようもないことで、私に欠落しているのは方向感覚ではなくて、方向という概念なのだろう。
信号は、だからいつもふいにやってくる。
「あっ」
と思ったときにはもう通りすぎている。なにしろ青信号なのだ。これが赤
ならもうすこし見ていられるのに、といつも思う。
「ここどこですか」
信号を通りすぎてすぐタクシーの運転手さんに訊いたりもするのだが、代々木、とたとえば教えてもらったところで、あまり役に立たない。
「あっ」
全然心の準備ができていないときにいきなり目にとびこんでくるそれは、でもたぶんだからこそ、贈り物のようで心おどる。子供のころ、父がときどき買ってきてくれた「おみやげ」に似ている。
緑の信号は、夕方に見るととりわけきれいでなつかしい。
一度、みぞれの降る夕方にそれを見たことがある。不思議な具合に感傷的で、どこかとても遠い町にいるような気がした。
「あっ」
と思ったときには、でもやっぱりもう通りすぎていた。

(本文P.9〜11 より引用)


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