生誕祭 上
著者
馳星周/著
出版社
文芸春秋
定価
本体価格 1700円+税
第一刷発行
2003/06
ISBN 4-16-321850-5
 
バブル期に暴走した「欲望」の行方は…著者、渾身の長編小説!バブル絶頂期の東京。元ディスコ黒服の堤彰洋は地上げ仕事に従事、人を騙し、陥れていたが…。欲望の極限を描いた渾身の長編小説。
 

バブル絶頂期の東京。元ディスコの黒服だった堤彰洋は、薄汚い地上げ仕事に従事していた。大金を動かす快感に酔いしれる彰洋は、次第に金に麻痺し、深みにはまってゆく…。80年代の青春の暴走と破滅を描いた、馳星周の新たな地平。




土地を探してこい齋藤美千隆はいった。
探し方を教えてくれた。必要なものは金。
金は人の視線を引きつける。
落合斎場が視界に入る。
新宿区と中野区の境界近くの住宅街のど真ん中。
葬儀があることを示す黒と白の垂幕。
故人の名は佐藤重吉。しげきちと読むのかしげよしと読むのかはわからない。
ただ、老人の匂いがする。
堤彰洋は車を降りた。暦の上では春だったが、黒のソフトスーツだけでは肌寒さを覚える。
斎場の斜め前に煙草屋があった。
萎びた老婆が店番を務めていた。
「マイルドセブン、ちょうだい」自動販売機を無視して、彰洋は老婆にいった。
「悪いけど、小銭がないんだ」
財布から一万円札を引き抜く。
分厚い財布分不相応。老婆の目が財布の上を横切っていく。
驚きは感じられなかった。今どき、見た目で懐具合ははかれない。
煙草屋の婆さんもそれぐらいのことは知っている。
「申し訳ないから、一カートン買ってくよ」
彰洋はつけ加えた。
老婆の顔がほころんだ。
「まだ冷えるね。これじゃ、葬式も大変だ」
「そうだね。佐藤さんとこも、若い人がいないから……」
彰洋は煙草と釣り銭を受け取った。
「佐藤さんね……なにやってた人なの?」
「なにも……もともとは学校の先生でね。校長まで勤めあげたんだけど、十年ぐらい前に退職して、後は年金暮らしよ。ほら、先生って公務員だから、年金もいいのよ。家だって自分の持ち家だし、悠々自適に暮らしてたのよ。毎朝この辺を散歩して、午後は碁会所に行って……それがこんなにあっさり逝っちゃうなんてねえ」
土地を探してこい見つけた。地道に暮らしてきた老夫婦。
おそらく、質の悪い紐はついていない。
「ふーん、家持ちなんだ。この近所?」
「ほら、この先の商店街の八百屋の裏だよ。そんなに広くはないけどさ」
「若い人はいないっていってたけど、お子さんとかいないの?」
「子供さん、みんな早死にしちゃってさ。奥さんの方も、親戚が少ないらしくてね、大変だよ。旦那の葬式の苦労が崇って自分も逝っちゃうんじゃないかってみんなで話してたのよ」
老婆は突然、口をつぐみ、彰洋の反応をうかがうように目を細めた。
「こう寒くちゃ、お年寄りにはきついよね、確かに。じゃあ、お婆ちゃん、ありがとう」
彰洋は煙草屋に背を向けた。気が急いている落ち着け。
自分にいい聞かせた。
車に戻り、ネクタイを替えた。黒のソフトスーツ、白いシャツ、黒のネクタイ。
弔問客として不自然ではなかった。
スーツを買うなら黒にしておけ齋藤美千隆はいった。
(本文P.6〜7 より引用)


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