楽しいナショナリズム
著者
島田雅彦/著
出版社
毎日新聞社
定価
本体価格 1400円+税
第一刷発行
2003/04
ISBN 4-620-31630-X
米グローバリゼーションからこの国を解き放て― サヨク文学者のナショナリスト宣言! 楽しい反米反戦ガイド。「サンデー毎日」好評連載

戦争加担ではなく、戦争反対こそが真の愛国だ!教養のない奴ほど権威に媚びる!数々の著書で知られる島田雅彦氏が、この国の教育・スポーツ・性・食・心とナショナリズムの関係などを鋭く衝く一冊。私は日本が好きなんだ!

 

ナショナリスト宣言

ある時、私と同年代のロシア人の批評家が自国の文化状況を説明するに当たって、こうスピーチを切り出した。
一私はロシア人ですから、外国でロシアの悪口はいえません。
ポップ・カルチュア・マニアのその人がさりげなく愛国主義者ぶりを発揮するので、やや違和感があったが、ロシアが、チェチェン独立を力ずくで抑え、千島列島の日本返還に反対する世論が九割以上を占め、カソリックの司教を追放し、ロシア正教至上主義を取り、ロシア語を神聖視する国であることを思えば、個々のロシア人がそうした態度を取るのは自然なことかもしれない。
また、ある時、アメリカの大学でノーベル文学賞を受賞した日本の作家が「諸悪の根源はナショナリズムである」という主旨の講演を行ったら、アメリカ人の学生が「なぜナショナリズムがいけないのですか」と質問したという。私は戦後民主主義の理念に立った作家の発言の真意を理解できるが、素朴な疑問を投げかけた学生の気持ちもわからないでもない。
きっと、その学生は星条旗への忠誠を誓う教育を長年にわたって受けてきただろうし、ナショナリズムと正義は矛盾するものではないと思い込んでもいただろう。
誰だって、自分の国のことを外国人に悪しざまにいわれていい気持ちはしない。
相手がいくら、友人としての厳しい忠告のつもりで苦言を呈したとしても、「おまえにだけはいわれたくない」と膀を曲げたり、「余計なお世話だ、放っとけ」と勘ねたくもなる。外国人の日本批判が当たっていればなおさらに、腹が立つ。
いくら論理的に正しいことをいわれても、感情がそれについていかない。
ほとんど、妻や息子の悪口をいわれたような被害妄想さえ抱いてしまう。
日頃から、妻には不満があるし、息子には叱言をいっている。
だからといって、嫌っているわけではないのだ。
ナショナリズムとはまさに妻や息子に対するのと同様、自分の感情と深く結びついているがゆえに一筋縄ではいかない。
ハリウッド映画ばりのヒロイズムと単純な勧善懲悪に熱狂するアメリカ人も、移民を諸悪の根源と決めてかかる極右のルペンを大統領選の決選投票に残してしまったフランス人も、ナベツネみたいなベルルスコー二を首相にしてしまうイタリア人も、よそ者から見れば、バカバカしい。
しかし、分別あるアメリカ人やフランス人やイタリア人だって、自国のナショナリズムにはひき裂かれるような思いをしている。
ルペン躍進の知らせにあるフランス人の記者は思わず「キューバに亡命する」と叫んだそうだ。ルペンを支持してしまう同国人に戸惑い、議会制民主主義の落とし穴に失望しながら、その人はフランス人でいることを止められない。
そして、ルペンもどきは何処の国にもいる。
ネオナチとパレスチナ過激派が、反ユダヤ主義を通じて、握手してしまう世の中だ。同時多発テロに対するアメリカの報復戦争から、世界各国は露骨にナショナリズムに向かって走り出した。
メディアを駆使して、敵を仮想し、国民の危機感を煽り、感情に左右されやすい吐論を操っている。
いわば、ナショナりズムさえもグローバル化している。
理性ではいくらでもナショナリズムを批判できるが、ナショナリズムは感情のわだかまりを吸い上げて盛り上がる。感情のわだかまりを理性でコントロールしようにも限界がある。
政治を分析し、批判する理性は国民の誰にでも備わっているわけではない。国民というのはもっとナイーブな存在で、感情によって動くものだ、と政治家は思っている。
だから、涙や土下座やヒステリーが政治的な武器になる。
頭のいい奴のいうことは面倒臭い、もっと単純にこの国を愛せばいいではないか、と思う人々は、たとえば、小林よしのりの漫画に共感する。
いわば、ナショナリズムは理性の彼岸にある。おのが理性を信じる者は狂騒的なナショナリズムを恥じながらも、それを支える感情を無視することはできない。
「日本人のここが嫌い」と在日外国人たちが口々にいい立てれば、私だってこういい返すだろう。
─君が何といおうと、私は日本が好きなんだ。
君には理解できない複雑な事情から私はナショナリストたらざるを得ないのだ。
君が指摘するような諸問題は私だって認識しているし、君たちが嫌うものに私はずっと抵抗してきたのだ。
おそらく、君以上に。
君は最終的に日本がどうなっても、痛くも痒くもなかろうが、私には死活問題なのだ。
国家と付き合っていく以上、誰しもナショナリズムとは何らかの関わりを持っている。
たとえ、某ノーベル文学賞作家のごとく、ナショナリズムを諸悪の根源と捉え、市民的理性を発揮しようとしても、ナショナリズムを支える感情とは無縁ではいられない。
ナショナリズムが誰もがはまる生活習慣病のようなものなら、上手に楽しくナショナリズムにかまける方法を模索した方がよいのではないか。
自分や周囲の日本人の感情がどう働いているかを見据え、ナショナリズムの根源に迫ってみるのも意味があるのではないか。
そして、もしアメリカや自民党や右翼漫画家たちの示すアホ臭く、古臭いナショナリズムよりもましなナショナリズムの発揮の仕方があるなら、そっちに鞍替えした方が幸福になれるのではないか。
政治もまた、国民の感情的な支持を得なければ、成り立たないので、楽しいナショナリズムの研究こそ、絶対多数の支持を得る近道になるのではないか。
政治的変人が人気を呼ぶのは潜在的に新たなるナショナリズムヘの期待が高まっているからではないのか。
そんな予測と期待を込めて、昔も今もサヨクであるこの私は、自分の意識や肉体を実験台にしてナショナリストになってみようと思う。

(二〇〇二・五・一四)

(本文P.9〜12より引用)


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