江戸の精霊流し 御宿かわせみ
著者
平岩弓枝/著
出版社
文芸春秋
定価
本体価格 1143円+税
第一刷発行
2003/05
ISBN 4-16-321780-0
 
かわせみ」に新しく雇われた女中の薄幸な境遇と、江戸の精霊流しの哀感ある風情が響き合って胸に迫る表題作を含め、八篇を収録
 

「御宿かわせみ」が「小説サンデー毎日」誌上で産声を上げて三十年。国民的人気シリーズの二十八巻目が本書である。
 幸薄い女の流されるような人生が、精霊流しの哀感と響き合う表題作を始め八編を収録。いつもの面々はもちろん、麻太郎と源太郎の人気コンビが今作でも大活躍する他、このところ成長著しい女中のお石の物語もファンには嬉しいところだろう。
 この春からはNHKの金曜時代劇枠で三度目の映像化も始まった。江戸開府四百年は「かわせみ」の年でもある。


夜鷹そばや五郎八

江戸の一日は石町の時の鐘が暁七ツを打つ音から始まる。
もっとも早起きなのは豆腐屋で、この時刻、すでに店を開け、呼び売りに出る者は出来上った豆腐をせっせと桶に移している。
大名行列が江戸を発つのも七ツ時だが、その日本橋北詰にある魚河岸は暗い中から江戸近海で捕れた魚を八挺櫓で運んで来たのが続々と陸あげされて威勢のよい掛け声で賑っていた。
だが、江戸の町の大方はまだ寝静まっていた。
町々の木戸は明六ツにならないと開かない。
柳橋から神田川を遡って俗に向柳原と呼ばれるあたりに近い神田豊島町三丁目に住む大工の耗八というのが、六ツ前に家を出たのは湯屋へ行くためであった。
多くの江戸っ子がそうであるように、彼も火傷をするような熱い一番風呂が好みで、目がさめるや否や手拭一本を肩に家をとび出して行く。
湯屋は柳原の土手へ向いた角にある金時湯で、いつもなら農八と同じように朝湯に出かける男が二、三人は歩いているところだが、今朝はいつもより少々早いせいか、薄暗い道に人影がない。
その代り、道端にぽつんと屋台が置いてあった。
江戸では夜鷹蕎麦と呼んでいる夜売りの蕎麦屋で、二八と書いた掛行燈の灯は消えている。
夜鷹蕎麦売りの屋台は夕方からの商売で、大方が暁七ツに店仕舞いと決っている。
ぼつぼつ六ツだというのに、随分とよく稼ぐと思いながら近づいてみると、屋台の傍に売り手が見えない。
どこへ行ったのかとぐるりと辺りを眺めて耗八はどきりとした。
屋台から五、六間離れた柳原の堤の草むらのところに黒いものが倒れている。
どうやら人らしいとおそるおそる寄ってみると紺の股引に半天着。
「五郎八爺さんじゃねえか。どうしたんだ、こんな所で……」
ひき起そうと体に手をかけると、ぬるりとした感触が指に伝わって、蕊八は思わず悲鳴を上げた。
あとはどこをどう走ったのかわからない。
とび込んだのは和泉橋の近くの番屋であった。
 

(本文P.5〜6 より引用)


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