Pay day!!!
著者
山田詠美/著
出版社
新潮社
定価
本体価格 1500円+税
第一刷発行
2003/03
ISBN 4-10-366809-1
ハーモニーとロビン。十七歳の双子の兄妹は、十七年間分の人生を糧に、ここでまた新しい一日を始める――。ゆったりと美しいアメリカ南部の町・ロックフォートを舞台に、たくさんの生といくつかの死が、織り成されていく。『ぼくは勉強ができない』から10年、山田詠美が、青春小説に帰ってきた!

山田詠美が、青春小説に帰ってきた! 8年ぶりの書下ろし長編小説。 
「初めから永遠のものなんて何もない。何もないと知ってるから、人は、必死にそれを作って行こうとするんだ」。ハーモニーとロビン、双子の兄と妹。十七歳のちっぽけな対の二匹に訪れた、愛する人の死。しかし彼らは、十七年間分の人生を糧に、ここでまた新しい一日を始める――。ゆったりと美しい南部を舞台にした堂々たる青春小説!

夏休みの間じゅう、父と兄と過ごしてみたい、というロビンの申し出に、母は反対しなかった。母は、娘の友人たちが、急激に変わり始めたのを目の当たりにしていた。意識した服装、意識した化粧、意識した態度(アティテュード)。彼女たちは、それらを有効活用するのにうつつを抜かしているように見えた。もちろん、男たちに対してである。この年頃の子供たちの好奇心には限りがなかった。大学に進めば否応なしに勉強に打ち込まなくてはならない。その思いが、彼女たちを駆り立てているようだった。そんな中に娘を置くことを、母は危惧している。ロビンは、この考えに至った時、笑い出したくなった。ひと夏を田舎で過ごさせれば、娘が純粋なままでいられるとでも? 私は、アヴェニューCのどこの角でディーラーがコカインを売っているのかまで知っているのよ。ダウンタウン育ちの彼女には、そこは庭のようなものだった。そして、彼女は、自分の庭で法律違反を犯す程、愚かではなかった。マムは、私を見くびっている。覚えたての化粧も、ヒッピーまがいの服装も、彼女たちにとっては、ユニフォームだった。映画館でボーイフレンドと手を握り合い心を熱くするところから始める彼女たちは、大人のようにはしたなくはなかった。マム、始まりはキスよ、ベッドからじゃないのよ。そして、男の人が必要なのは暑い夏じゃなくて、暖めてもらいたい冬なのよ。
 ジョージア州のサヴァンナ空港には、父とハーモニーが迎えに来ていた。二人は、ロビンを交互に抱き締め、彼女は、懐しい匂いに胸を詰まらせた。彼らなしで一年も過ごして来たなんて。母の姿が、ちらりと頭をよぎった。マムは、どうして平気なんだろう。
 スーツケースを車に運び込むと、三人は早速、サウス・キャロライナに向かった。途中のガスステイションで車を停めた父が、そのまま売店に入って行ったので、ロビンは不思議に思いハーモニーに尋ねた。
「ダディは、何を買いに行ったの?」
「宝くじ(ロットリー)」
「何も、ここで買わなくても」
「サウス・キャロライナはギャンブル禁止なんだ」
「え? そんな州があるの?」
「ついでに言えば、ポルノも売ってない。でも、ケンタッキーとかあの辺みたいに酒禁止区域(ドライタウン)じゃないだけましだってダディが言ってた。高校教師のあの人が、 だよ。 どういう意味だか解る?」
「つまり、その方が余程教育上良くないってことね」
「その通り。知ってる? サウス・キャロライナの議会の建物には、去年まで南軍の旗が掲げられていたんだぜ。そのおかげで、公演を拒否したミュージシャンがどれ程多いことか」
「南軍!? それって、南北戦争の?」
「そう。映画の『グローリー』のデンゼル・ワシントンもモーガン・フリーマンも、ちっとも議会の人間を感動させなかったってことさ」
 ハーモニーは、小さな頃に観た映画の題名を上げた。そして、助手席から振り返ってロビンに皮肉たっぷりに笑いかけた。
「ブゥドゥ教の聖地にようこそ」
「ブゥドゥ教!! そんなのまだあるの!?」
「さあ。あるんじゃないか? ここには、ニューヨークにないものがすべてある。そして、ニューヨークには、ここにないものがすべてある。マムは、どうしてる?」
「元気よ。最近、菜食主義になったわ。でも、コーヒーは止められないみたい。あ、それから、あなたにピアノは止めて欲しくないって」
「弾いてるよ、時々だけど」
「先生がいるの?」
「いや、教会で弾いてる」
 教会!? ロビンは、後部座席から兄の横顔を盗み見た。何だか大人びて、知らない人のように思える。金色の混じった髪は、短いドレッドロックスに整えられ、両耳には、二つずつ銀の小さな輪が光っている。ニューヨークにいた時に、いつも、彼がしたがっていたスタイルだ。彼は、やりたいようにやっている。そうしたいように生きている。ロビンは、少しだけ羨しく感じた。自分こそ、まさに、自由の街に住んでいるというのに。
「彼女が恋しい」
 ハーモニーは、呟いて、鼻を啜った。誰のことを言っているのかと、ロビンが首を傾げていると、彼は、再び、ぽつりと言った。
「あなたが恋しいよ、マム」
 母が、これを聞いたらどう思うだろうと、ロビンは想像した。時折、息子の写真の入ったフレームを手に取ってながめている母。けれども、その姿は、少しも感傷的になっているようには思えないのだ。彼女は、身にまとった鎧を少しずつ頑丈にして行っているみたいだと、ロビンは感じている。まだ両親が仲良かった頃、母は、父をレイレイと呼んでいた。そして、父は、母をベイビーと。二人が呼び合う声は、ロビンを綿菓子でくるまれたような気分にさせた。とっても、スウィートな女の子。父にそう呼ばせたあの人は、いったい、どこに行ってしまったのだろう。
「ねえ、ハーモニー、あなた、今、ベイビーって呼ぶ人いる?」
「どういう種類の質問だよ、それ」
「答えて」
 ハーモニーは、少しの沈黙の後、言った。
「いるよ」
 ロビンが、なんとなくおもしろくない気分になっていると、父が戻り、車は再びサウス・キャロライナのロックフォートに向けて走り出した。

 ベイビーか。ロビンは、あの着いた日の会話を思い出しながら、今、汚されたスニーカーを嘆いているハーモニーをながめている。一年会わない内に大人びてしまった兄というイメージは、たった一週間の内に崩れつつある。相変わらず、自分用のシリアルを勝手に食べたという理由で妹に喧嘩を売って来たり、ブロックバスター(レンタルヴィデオ店)で借りて来たヴィデオをこちらが観ていない内に返してしまったりするのだ。思いやりにあふれていたのは最初の一日だけ。その夜に、彼が客間のベッドを整えてくれた時、ロビンは感動すら覚えたものだ。I love my brother !!! そう叫んだけれど、今は、ジョシュ・ハートネット(若手俳優)の方をより多く愛してるような気もしてる。
「ハーモニー、あなた今日仕事?」
「いや、用事あるから友達に替わってもらった。その代わり、明日の日曜日には出なきゃ」
「なるほど。教会に行かなくてすむように手筈を整えたという訳ね」
 ハーモニーは肩をすくめてロビンを見た。彼は、夏休みの間じゅう、ウォールマートで雑用の仕事をしていた。商品をプラスティックの袋に詰めたり、カートを片付けたりするような作業だ。このスーパーマーケットでは、祖母のアリシアも働いている。皆、忙しそうだ。そうでないのは、私とウィリアム伯父さんだけ。彼は、いつも、酒に酔っているか寝ている。気の良い人に見えるけれども、ハーモニーが言うには、それは、酒が入っている時だけだそうだ。素面の時には、ほとんど凶悪犯か哲学者のどちらかに見える、とのことだ。湾岸戦争から戻って以来、ずっとそうなのだと父が言った。でも、この土地が、ドライタウンでないのは良かったのかもしれないな、とも。アルコール依存症を抱えた兄に対するその彼のものすごい譲歩の仕方は、ロビンを少なからず怯えさせる。
 小さな頃に会ったきりのロビンの姿を見た時、祖母は歓喜の叫びを上げて彼女を抱き締めた。顔じゅうに口づけを受けて、ロビンは口紅だらけになった。グランマは、私に、ものすごく沢山の笑いのスタンプを押した。ロビンは、甘過ぎる香水の匂いの中で、ぼんやりとそう感じた。笑い。素敵じゃないか。物事を上手く行かせるには、それが基本だ。笑いから、すべてを始めること。自分は、そのことを忘れていたような気がする。
 祖父は、アルコールが原因で体を壊し、父が高校の頃に亡くなっていた。ウィリアム伯父が酔いつぶれていると、祖母は、溜息をついて、父親ゆずりだと呟いた。そして、外見も父親そっくりよ、酒と女にだらしない良い男だったわ、と続けるのだった。ウィリアム伯父に振り回されながら、この家、ジョンソン一家、祖母、父、兄は、生きていた。そこには、ロビンのまったく足を踏み入れたことのない世界があった。騒々しく、遠慮なく、親密だった。ニューヨークから、たったの三時間で、彼女の夏休みは、別の色に塗り変えられた。屋台のスブラキの香ばしさが鼻をかすめる代わりに、彼女は湿地の濡れた匂いを嗅ぐ。クラクションの代わりに、虫の音を聞きながら眠りにつき、通り過ぎるイエローキャブの代わりに、アライグマ(ラクーン)に出会う。彼女の長い夏は、始まったばかりだ。
「ハーモニー、あなたの今日の用事って何なの?」
「きみには関係ない」
「何なの、それ!? せっかく妹が会いに来たってのに、おもてなしの心ってないの? ここにずっといろって言うの? どっか行くんなら、一緒に連れてってくれたって良いじゃない」
 ハーモニーは、困ったような表情を浮かべて黙っていた。
「ガールフレンド?」
「うん、まあ、そういうこと。ボウリングに連れて行く約束したから」
「ボウリング!?」
「……行く?」
「行かない」
 高校生らしくて結構なことだ、とロビンは、うんざりしながら思った。ハーモニーは、しきりに照れている。それを見て、好きになった男と女のお楽しみは、ボウリング場でも有効なのか、と彼女は呆れた。この人、前は、いっぱしの不良の振りして、悪がきたちとワシントンスクウェアにたむろして(ハング)いたものだけど。
「寝たの? その彼女と」
「うん、まあ」
「セイフセックス オア ノーセックス」
「何だよ、それ」
「女が望んでないのに妊娠させる男は最低だって。マムが、そう言ってたよ」
「おまえになんか何が解るんだよ」
 ハーモニーは、そう言い残して、むっとした表情を浮かべながら、家の中に入って行った。ロビンは、その後ろ姿をながめながら、母の言葉を思い出していた。私は、あなたたちを望んでいたの。その点は、あなたたちの父親に感謝しているのよ。感謝の結果の私たち、とロビンは思う。喜ばしい筈なのに、少し重くその言葉がのしかかるのは何故だろう。
 相手にしてくれない兄を見限り、ロビンは、父のコンピューターを借りて、母や友人たちにメールを送ることで午後を過ごした。涼しくなった夕暮れに庭に出ると、ウィリアム伯父が、ポーチの椅子に座わりビールを飲んでいた。朝、ハーモニーとそうしていたように、ロビンは、今度は、彼と向い合う。
 ウィリアム伯父は、その時刻、広い庭に立つ何本もの木々を行き来するリスたちを目で追っている。ロビンも同じように見上げてはみるものの、まだ高い位置にある太陽の光が葉陰からこぼれ落ちて目に痛い。まばたきをしながら横を向くと、ウィリアム伯父は、なるほど、ハーモニーの言うように哲学者のようだ。頬杖の先にある彼の静かな瞳が充血していなければの話だけれど。
「御気分はいかがですか? アンクル・ウィリアム」
「最高だよ。夜が近付いて来ると嬉しくて仕様がない。何でも出来るような気がして来る」
「私は、やだな。もう一日が終わっちゃうって気持になるもの」
 ウィリアム伯父は、笑いながら、モルトビールの新しい缶を開けた。
 すごくまともに見える、とロビンは思う。皆が彼をアルコール中毒として扱っているけれど、マンハッタンのバワリーあたりの手のほどこしようのない連中とは全然違う。彼は、ただ飲んでいる。水のように飲んでいる。
「あの……お酒が好きなんですか?」
 ロビンの問いに、彼は、微笑を返した。笑い皺が、とろりと目尻に流れる。ハンサムだなあ、と彼女は心の内で感嘆する。考えてみれば、彼は父よりたった二歳上、まだ四十二なのだ。女にもてて、出歩いたっておかしくない年齢なのに。
「あんまり外で飲んだりはしないんですね」
「金がないからね」
「働いてみたら?」
「うーん、働く気は大ありなんだが、実際、何度も仕事は見つかったんだが、どうも向いてないみたいでね。人の給料日(ペイデイ)を待ちわびる人生に逆戻りしてしまう。軍にいた時に、勤労意欲を全部使い果たしてしまったのかな」
 自分の母親が、彼の言い草を聞いたら激怒するだろうと、ロビンは思った。でも何故だろう。自分には、ウィリアム伯父さんが少しも憎めない。そして、そう感じているのは、彼女だけではないようだった。この家の人々全員が、彼に悪嫌感を抱いてはいないのだった。スニーカーを汚されて、しょげていたハーモニーですらも。
「湾岸戦争に行ったって本当ですか?」
「そうだよ。その頃、おれは、日本にいたんだけど、日本の女は綺麗だったなあ。でも、なんだって結婚しちゃったのかなあ。好きな女とは結婚なんかしないのが一番。レイも、そう言ってなかった?」
「聞いてません」
「あ、ラッキーだ。ヘイ、ラッキー、ラッキー・ストライプ」
 ウィリアム伯父は、庭を横切って行くアライグマに声をかけた。このあたりでは、しょっちゅう、アライグマが出没するのだが、庭に侵入するそれを、彼は、ラッキーと名付けていた。病気を持っているから、絶対に近付いてはいけません、とロビンは祖母に言われている。どれも同じアライグマではないかもしれないのに、あれがラッキーだと自分には解るのだと彼は言い張っている。
 ラッキーは、二人を一瞥した後、ゆったりと歩き続けて突き当たりのフェンスを登り、逆立ちするような格好でそこを降りて立ち去った。尻っぽの縞が、あまりにも見事なので、名字をストライプにしたと、ウィリアム伯父は言う。そう言えば、小さい頃に母親が、メイシーズで買ってくれたセーターが、同じような縞模様だったっけ、とロビンは思い出す。大嫌いで、ほとんど着ることなどなかったけれど。
「どうして、ダディは、結婚してから、滅多にここに帰って来なかったんでしょう」
「昔は、時々帰って来てたんだよ。ひとりでね」
 ロビンは、首を傾げた。父が故郷に、たびたび帰っていたという話は聞いたことがない。だいたい、祖母に会ったのだって、彼女がニューヨークに訪ねて来た時の一度だけなのだ。
「おれも軍隊に入って、なかなか帰ることが出来なかったから、あいつはマムのことをいつも心配してた。彼女は、あの通り強い人だから大丈夫って言ってたんだけど、いつかは、ここに戻って一緒に住むんだって。あんなに、こんな田舎は大嫌いだって言い張って、大学も勝手にニューヨークに決めて、さっさと出て行ったのに」
 父は、ずっと、この土地に帰るのを夢見ていたのだろうか。私たち家族と楽しい日々を過ごしていたその時にも。あの、ニューヨークでしか生きて行けないような母と愛し合っていた頃にも。
「あいつは勉強が好きだった。成績もずば抜けていて、すぐに奨学金を受けられるようになった。でも、今思うと、 彼にとっての勉強って、 ここから出て行くための手段だったのかもしれないね」
 日は沈みかけ、蚊が、しつこくロビンの足にまとわり付いた。彼女は、ガレージに、蚊取り用のワックスを取りに行った。戻って来ると、ウィリアム伯父は、椅子の肘掛けに頬杖を突きながら、うたた寝をしていた。彼女は、ワックスの芯に火を点けると、それを、そっと彼の足許に置いた。ふと目をやると、オールドイングリッシュの空の缶が、五つも転がっていた。ウィリアム伯父さんの寝顔は、やはりハンサムだ、とロビンは、自分の思いつきを肯定する。そのたたずまいには、流し込まれたお酒も含まれているんだわ。

http://www.shinchosha.co.jp/books/html/4-10-366809-1.html

より引用

 
 


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