星々の舟
著者
村山由佳/著
出版社
文芸春秋
定価
本体価格 1600円+税
第一刷発行
2003/03
ISBN 4-16-321650-2
父と息子、後妻と連れ子の「家族」の幸せで平凡な生活。そう、兄妹が恋仲になるまでは…。著者が新境地を切り拓いた感動の長編。

 戦前生まれの厳格な父、家政婦から後妻に入った母。先妻の子供も後妻の連れ子も、分け隔てなく育てられ成人しました。そんな一家に突然、残酷な破綻が訪れて――。
 家族とはいったい何なのか。性別、世代、価値観もそれぞれに違う彼らは夜空の星のようにばらばらに瞬きながらも、「家」というひとつの舟に乗って、無限の海を渡っていくようでもあります。
「おいしいコーヒーのいれ方」シリーズ等で若い読者の絶大な支持を得る著者が、新境地を切り拓く、注目の一冊です。


雪虫

受話器を置き、目をあげると夜明けだった。
居間の窓へと歩み寄り、煙草に火をつける。
足もとにひろがる鈍色の街の上に、雲が分厚く垂れ下がっている。
電話の向こうのすすり泣きが、耳の奥にこびりついて離れない。
額をガラスに押しあてて、暁は目を閉じた。
地上をはるかに見下ろす窓は思いのほか冷たく、日に灼けた裸の上半身がみるみる粟立っていく。
あれから何年になるのだろう。
生まれた町を飛び出したのが大学二年の頃ということは、そろそろ十五年にもなるのか。
あれ以来、一度も家に戻ったことはなかった。
戻りたいとも思わなかった。
この先も二度と戻るつもりはなかった。
そう、今の今までは。
「どうしたの」
ふりむくと、寝室の入口から女がのぞいていた。
一瞬、また酔っぱらって知らない女を連れこんでしまったかと思った。
そうではなかった。化粧のはげた眠そうな顔のせいで、涼子がいつになく幼く見えただけだった。
胸に巻きつけたシーツを引きずりながら、彼女は居間を横切って、するりと腕の中に滑りこんできた。
顔の造りは十人並みでも、猫のような立ち居ふるまいのおかげで三割増し美人に見える女だ。
暁がくわえていた煙草をつまみ取り、涼子は彼の胸によりかかってそれを吸った。
「すごい眺め」遠くで赤く点滅する鉄塔めがけて、ゆっくりと煙を吹きかける。
「宙に浮かんでるみたい」
「この眺めだけで、ここを買った」
「驚いた。水島クンがお金持ちって噂、本当だったんだ」
そんなことはない、それにたぶん、もうじきここも出ていくことになるのだと言おうとしてやめた。かわりに、目の前の細い肩に落ちかかる髪をかき分け、あらわになった首筋に唇をつける。涼子は吐息をもらした。すすき野の彼女の店で遅くまで飲むのはこのごろでは珍しくもないが、寝たのはもちろんのこと、部屋に上げたのもゆうべが初めてだった。彼女でよかったと暁は思った。今はこれ以上、面倒に耐えられそうもない。
「誰からだったの」
「うん?」
「さっきの電話」
「ああ。妹」
涼子は首をねじって暁を見た。「良くない知らせだったのね」
「どうして」
「明け方の電話がいい知らせだったためしはないもの」
暁は肩をすくめた。
「そうとは限らないさ。上の子が生まれた時だって、こんな時間にかかってきた」
「そう?その時もあなた、そんな顔してたわけ?」
苦笑いして、涼子の指から煙草を取り返した。窓枠に灰を落とす。
「おふくろがさ」顎を彼女のつむじのあたりにのせて暁は言った。
「危ないんだと」
「え。でも確かあなた、小さいころ亡くなったって」
「うん。だから、育てのおふくろ」
「……ご病気?」
「クモ膜下出血」
涼子がかすかに眉を寄せて見上げてきた。
「行くんでしょう?」
「さあな」
「行かないと、あとで後悔するわよ。私なんか、父親の死に目に意地張って会わなかったこと、
いまだに心残りだもの」
答えずにいると、
「これから支度して出れば、午前中には着けるじゃないの」と彼女は言った。「ね、行ってらっしゃいってば」

(本文P.9〜11より引用)

 
 


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