Fine days 恋愛小説
著者
本多孝好/著
出版社
祥伝社
定価
本体価格 1600円+税
第一刷発行
2003/03
ISBN 4-396-63222-3
僕は今の君が大好きだよ。 たとえ、君自身が、 やがて今の君を必要としなくなっても―

■おすすめコメント
僕は今の君が大好きだよ。たとえ君自身が、やがて今の君を必要としなくなっても…『MISSING』『MOMENT』で多くの読者を魅了した著者が瑞々しい感性で描く4つのラブストーリー。

教室で一人、僕は頬杖をついていた。机の上の原稿用紙はまだひとマスも埋まっていなかった。
それを埋める意思が自分にあるかどうかすら怪しかった。
暮れかかった空には不満そうな顔をした鰯雲が流れていた。
練習が終わるのだろう。
開け放した窓からグラウンドを走る野球部員の掛け声が聞こえてきた。
いち、に。いち、に。いち、に。いち、に。
おえーす。
僕はそれに、さん、し、と小さく付け足した。
いち、に、さん、し。
いち、に、さん、し。
おえーす。
木曜日の放課後。
陰気な教室。
坊主頭たちとの一方的な連帯感。
不意に教室のドアががらりと開けられ、僕は何度目かの「さん、し」を飲み込んだ。
僕はその子の登場に驚いたが、彼女は僕がいることに驚いてはいないようだった。
軽く会釈をするように頭を下げられ、僕も頭を下げ返した。
見覚えのない子だった。
黒い髪と細い首と無表情な目をしていた。
あまりに整い過ぎた顔立ちのせいだろう。
学校の制服で教室にいることが不自然に見えた。
ブランドの服でグラビアの中にいてくれたほうが、はるかに自然に見えたかもしれない。
「ええと、何P」と僕は聞いた。
「反省文です」とその女の子は言った。
「書けって言われたんです。ここでもう一人書いている人がいるから、一緒に書けって」
「ああ」と僕は言って、聞いた。「何をしたの?」
「大したことじゃないです」と彼女は言って、ドアから一番近い席に腰を下ろした。
「大したことじゃない、どんなこと?」
僕は聞いた。クラス委員タイプに見えるその子が、どうして放課後に居残りをさせられる羽目になったのか、興味があったのだ。
彼女は僕を振り返った。
「先生を叩いたんです」
「なるほど。それは大したことじゃない」
僕は笑いかけたのだが、彼女は机に向き直ってしまった。原稿用紙を広げると、シャーペンを手にして、早速反省文を書き始めた。かりかりという音が教室に響いた。それはまるで暗記した
文章をそのままなぞっているような書き方だった。
考えることも、迷うこともなかった。
時折、腕を伸ばしたり、首を回したりするときをのぞけば、彼女の手は止まることなく滑らかに動いた。
どうにも相手をしてくれそうにないと諦めた僕は、彼女のかりかりという音に合わせて、五十音を書くことにした。
あいうえおかきくけこさしすせそたちつてと……
一回りしても彼女の手は止まらなかった。
で、僕はまた最初から始めた。
あいうえおかきくけこさしすせそたちつてと……いつのまにか坊主頭たちのランニングは終わっていた。
彼女のシャーペンが出すかりかりとい
う音と、僕のシャーペンが出すこりこりという音だけが教室に響いた。
力り力りこりこり木曜日の放課後。
原稿用紙を埋めていく無意味な平仮名。
名前も知らない女の子との一方的な連帯感。
三回りと半分ほどを書き、さすがに馬鹿馬鹿しくなって僕は手を止めた。
「ねえ、叩いたって、誰を叩いたの?」
彼女は答えなかった。ものすごく反省しているのかもしれない。
一心に反省文を書いていた。
かりかり。かりかり。
「ゲンコ?それともビンタ?」
かりかり。かりかり。
「君、何年つ一・三年じゃないよね?」
かりかり。かりかり。
「部活とか入ってるの?」
かりかり。かりかり。
「髪の毛、奇麗だね」
かりかり。かりかり。
「ほら、女の子ってやたらと染めたりするだろあれ、俺、嫌いでさ。きっと幼児体験のせいだね。初恋の女の子がすごく奇麗な髪の毛をしてたんだ」
かりかり。かりかり。
「幼稚園の同級生で、顔も名前も忘れちゃったけど、髪の毛だけは覚えてるんだ。肩のずっと下、腰の辺りまであってさ。日に当たると白いラインができて、すごく奇麗だったんだ。だから、俺は彼女に恋をしたんじゃなくて、彼女の髪の毛に恋をしたんだろうな。変な初恋だろ?」
かりかり。かりかり。
僕は彼女に話しかけるのを諦め、幼稚園の同級生の顔を思い出そうとした。が、無理だった。
たぶん、町ですれ違っても僕は彼女に気づきもしないのだろう。
実際にそういうことだって、何度もあったのかもしれない。
そう思うと、少し悲しかった。
先生がやってきたのは六時少し前だった。
文を書かせて反省を促すのが趣旨ではなく、居残りという罰を与えるのが第一の目的だったのだろう。

(本文P.6〜8より引用)

 

 
 


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