リアルワールド
著者
桐野夏生/著
出版社
集英社
定価
本体価格 1400円+税
第一刷発行
2003/02
ISBN 4-08-774619-4
ねえ、取り返しのつかないことってあるんだよ。高校3年生の夏休み、世界の終わりが始まった。

4人の女子高生、ホリニンナ、ユウザン、テラウチ、キラリン。ホリニンナの隣家の高校生ミミズが母親を殺して逃亡した! 4人はミミズの逃亡を手助けすることに。現代の高校生の心の闇を描く、力作長編。

第一章 ホリニンナ

眉毛を描いていたら、光化学スモッグ注意報が聞こえてきた。夏休みに入ってから毎日のことなので、あたしは驚きもしなかった。
「皆様にお知らせいたします。ただいま、光化学スモッグ注意報が発令されました」。
やたらゆっくりした女の声がスピーカーから流れ、続いて心優しい恐竜の鳴き声みたいなサイレンが響き渡る。
発令されるのはたいがい昼前で、あたしが塾に出かける寸前のことが多い。
けど、注意報が発令されたところで、誰もどうもしやしない。
へえ、またかい。
そんな感じ。それより、この街のいったいどこにスピーカーが隠されているのだろう。サイレンが鳴るたび、あたしはそっちの方がよっぽど不気味で不思議だと思う。
ここは杉並区の外れにある立て込んだ住宅街だ。
昔はゆったりしていたらしいけど、古い家は壊されてちまちました二世帯住宅やアパートに変わったし、あたしが小さい頃に梅林や畑だった ところは、縞麗だが異様に狭い住宅が幾棟も建って、何とかタウンというカッコ良さげな名で売りに出された。
見栄えのする家族が沢山移り住んで来て、休日は外車や犬を連れた人が行き交うようになった。
元は農道としか思えない細いアスファルトの道が縦横斜めに走り、二軒隣の家は買ったベンツを車庫入れに苦労した挙げ句に手放したほどのせせこましい街だというのに。
ぶお一っ、ぶおーっ。
サイレンが続く。
その間隙を縫って、隣の家からがちゃんと何かが割れる鋭い音がした。
頬と頬を寄せ合うように家が並んでいるから、窓を開け放していれば、夫婦喧嘩の怒鳴り声や電話のベルなんかが聞こえてくる。
窓ガラスでも割ったのだろうか。
七年前、斜め向かいの家に住んでいた男の子がサッカーボールを我が家に蹴り入れて、仏壇の置いてある部屋の窓ガラスを割ったことがあった。
その子はシカトしたまま、関西の学校に転校してしまった。
取りに来ないサッカーボールが長い間、軒先に転がっていたのを覚えている。
それはまあともかくとして、その音にそっくりだったのだ。
小さな子供なんていない隣の家からそんな音が聞こえるということ自体が変だったし、何とはなしに不穏な感じがした。
泥棒が侵入したのかもしれない。
あるいは強盗か。あたしはどきどきしながら耳を澄ました。
しかし、音はもう何もせず、静まり返っていた。
隣は一昨年引っ越して来た。我が家との交流はほとんどない。
回覧板を回す時にインターホンを押すと、愛想笑いをしたおばさんが出て来るくらいのもんだ。
はっきりわかっているのは、両親と、あたしと同じ歳の男の子がいることだけ。おばさんは時々、竹箒で家の前の道を掃除している。
銀縁の眼鏡、お茶碗にべっとりと跡が付きそうな真っ赤な口紅。
そのふたつを取ったら、きっとあたしはおばさんの顔がわからないだろう。
おばさんは、あたしの制服姿を見て「お嬢さん、高校生?」と聞いたことがあった。
はい、と答えたら、「うちの息子もそうなのよ」と有名な進学校の名を告げ、嬉しそうに笑っていた。
うちの母親はその話を聞いて、「けっ」と嫌な顔をした。確かに自慢したいのがばればれだったし、あたしが偏差値的にはたいしたことのない私立女子校に通っているから馬鹿にされたと感じたのかもしれない。
でも、あたしは隣のおばさんて単純だなあと思い、そんな母親の子供はさぞかし恥ずかしいだろうなと隣の息子に同情もしたのだった。
「うちの息子」は、ひょろっとしていて猫背。
目が小さくて陰気。
ミミズみたいな奴だった。
のったらくったら首を曲げて歩き、覇気というものが全く感じられない。
あたしと駅で会っても、目を合わせようともしないで建物の陰に行く。
暗がりに潜んでいれば、この世のすべてから隠れられるとでもいった風に。
そこんとこは、会社員らしい父親とそっくりだった。
父親も、あたしなんかこの世に存在していないかのような無視の仕方をする。
夕刊を取りに行って、ちょうど帰って来た父親と目が合ったことがあった。
あたしが会釈すると、父親はふっと目を泳がせて何も見なかった顔をした。
「あのおっさんは何をしてる人かね。
アスコットタイなんかしちゃって気障だ」

(本文P.7〜9より引用)

 

 
 


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