ブレイブ・ストーリー 上
著者
宮部 みゆき
出版社
角川書店
定価
本体価格 1800円+税
第一刷発行
2003/03
ISBN 4-04-873443-1

愛と勇気の能拳ファンタジー 『模倣犯』から2年。日本中が待ちわびていた感動の最新長編。

宮部みゆき ワールドの新たな地平を切り拓く、壮大なる愛と勇気の冒険ファンタジー!

僕は運命を変えてみせる─。
東京下町の大きな団地に住み、新設校に通う小学5年生の亘は、幽霊が出ると噂される建設途中のビルの扉から、剣と魔法と物語の神が君臨する広大な異世界─ “幻界”へと旅立った!
時代の暗雲を吹き飛ぱし、真の勇気を呼び覚ます潭身の大長編

幽霊ビル

最初はそんなこと、誰も信じていなかった。
少しも信じていなかった。噂はいつだってそういうものだ。
あれは新学期が始まったばかりのころだったろうか。
いちばんはじめに言い出したのが誰だったのか、今となってはわからない。
噂はいつだってそういうものだ。
それでもみんな、自分が聞いたことはちゃんと覚えている。
どこの誰から聞かされたのかも覚えている。
それなのに、たどっていっても出発点がわからない。
噂はいつだってそういうものだ。
「小舟町のさ、三橋神社の隣にビルが建ってるだろ?あすこに幽霊が出るんだってさ」
三谷亘の場合、そんなふうに教えてくれたのは、居酒屋「小村」のカッちゃんだった。
克美という名前は、彼が生まれるずっと前から決められていたもので、両親は女の子を期待していたし、超音波検査でも、小村さんのおなかで育っているのは女の子だと、産婦人科の先生は言っていた。
ところが十一年前の四月九日、予定日より一週間も早く生まれてきたのは元気な男の子で、その大きな泣き声には、産院の誰もが廊下の反対側からでもすぐに聞き分けられるようになってしまったくらいの特徴があった。
ちょっぴりしゃがれ声だったのだ。
「父ちゃんがさ、オレって母ちゃんの腹のなかでタバコ吸ってたんじゃねえかって言うんだ」
ついでに言えば、小村克美君は顔色も浅黒い。
これも赤ん坊のころからだそうで、ひょっとすると小母さんのおなかのなかで、タバコ吸いながら潮干狩りなんかしてたのかもしれない。
コイツならそれくらいのことはあっても不思議はないと亘は思う。
なにしろ、お揃いの黄色い帽子をかぶって城東第一小学校へあがったその年の十二月、教室があんまり寒いからといって、火力の落ちた古い石油ストーブにぴったりとへばりつき、先生が教室に入ってきてからもそのままへばりついていて、席に着きなさいと叱られると、「オレにはかまわないでいいスからチャッチャッとやってください、チャッチャッと」
と、愛想良く言い放ってしまったというコドモである。
亘はその現場を目のあたりに見て、あまりにおかしかったので家に帰って話したのだが、聞いた方はてっきり作り話だと思ってしまったのも無理はない。
このエピソードは伝説化しつつあり、亘たちが五年生になった現在でも、冗談混じりに、
「小村、宿題はチャッチャッとやってるか?」なんて言う先生がいるほどだ。
亘に噂話を教えてくれたときのカッちゃんの声も、いつもながらにしゃがれていた。
ちょっぴり興奮しているのか、“ユーレイと”発音するときにはそこが裏返った。
「カッちゃんはユーレイ話好きだからなあ」
「オレだけじゃないって、みんな言ってるって。夜中にあそこを通りかかって、バッチリ目撃しちやったヤツもいてさ、あわてて逃げ出したら追いかけられたんだって」
「どんな幽霊なのさ」
「ナソカじいさんらしい」
老人の幽量というのは珍しくないか?
「どんな格好してンの」
カッちゃんはごしごしと鼻の下をこすると、しゃがれ声を低くした。
「マソト着てるんだって。真っ黒なマソト。すっぽりと、こう」
と、頭から何かかぶる仕草をした。
「それじゃ顔見えないじゃんか。なんでじいさんだってわかるんだよ」
カッちゃんは顔をくしゃくしゃにした。スーパーや駅で、たまにカッちゃんが小村の小父さんと連れだっているのに行き合うと、小父さんもちょうどこれと同じような顔をして、「よ、元気か?」
と声をかけてくれる。
「わかるもんはわかるんだよ。そういうもんだろ、ユーレイは」
カッちゃんは言って、ニッと笑った。
「おまえってヘンなとこマジメでカチカチね。やっば鉄骨屋の息子」
亘の父の三谷明は製鉄会社に勤めている。
製造業のなかでも製鉄や造船は、基幹産業としての役割が縮小してくるにつれて、本業以外のいろいろな分野に手を広げて会社の活性化を図らずにはいられなくなって、だから今年三十ハ歳になる明も、製鉄の現場には、新入社員のころのごく短期間しかいたことがない。
以来ずっと企画研究や広報の担当部署を回っていて、現在はリゾート開発専門の子会社に出向している。
それなのにカッちゃんは、製鉄会社というだけで「鉄骨屋」と呼ぶのだ。
幼稚園のときからの付き合いなのだから、いい加減で覚えてもらいたいものである。
それでも確かに亘には、頭の固いところがあるらしい。

(本文P.9〜11より引用)

 

 

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