マークスの山 下
著者
高村薫/〔著〕
出版社
講談社
定価
本体価格 648円+税
第一刷発行
2003/01
ISBN 4-06-273492-
高村薫の世界を堪能・・・・全面改稿!! 新しいマークスに泣かされる合田雄一郎にも泣かされる

全面改稿!!
第109回直木賞受賞作

新しいマークスには泣かされる
合田雄一郎にも泣かされる

殺人犯を特定できない警察をあざ笑うかのように、次々と人を殺し続けるマークス。捜査情報を共有できない刑事たちが苛立つ一方、事件は地検にも及ぶ。事件を解くカギは、マークスが握る秘密にあった。凶暴で狡知に長ける殺人鬼にたどり着いた合田刑事が見たものは……。リアルな筆致で描く警察小説の最高峰。

 

著者紹介
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■村薫(たかむらかおる)
1953年、大阪に生まれる。国際基督教大学を卒業。商社勤務をへて、1990年『黄金を抱いて飛べ』で第3回日本推理サスペンス大賞を受賞。1993年『リヴィエラを撃て』で日本推理作家協会賞、『マークスの山』で直木賞を受賞。1998年『レディ・ジョーカー』で毎日出版文化賞を受賞。他に『神の火』『わが手に拳銃を』『地を這う虫』『照柿』『晴子情歌』雑文集『半眼訥訥』などがある。

 

四 開花

十月十三日火曜日

ラッシュアワーにはまだ少し早い午前七時、東京駅の山手線ホームにはめっきり低くなった秋の日差しがあった。
開店したばかりのキヨスクの脇に、加納祐介は片手に書類カバン、片手に朝刊というサラリーマン然とした恰好で立っており、スニーカーのゴム底の足が隣に近づくと、朝刊から上げた目をまたすぐに紙面に落として「お早う」と言った。
「お早う」と合田も言った。
「可笑しいな。なんでこんなふうなんだろう」加納は言い、それはこっちの台詞だと思いながら、合田も「ああ」とだけ応えた。
共にろくに寝ておらず、食っておらず、あれこれの公私の懸案を避けがたく一緒にして思い巡らし続けた末に、こうして公共の場で面を突き合わせて出てくる第一声が「お早う」とは。
そして、それに続くのは当面の仕事の話なのだが、思えばこの男とは、昔から山ほど抽象的な議論はしたのに、日常会話はおおむね貧しくぎこちなかったのだった。
それを貴代子はいつも喧い、無口の男が二人揃ったら、黙って山でも歩くしかないわねと、最後の日々は刺すように冷やかだった。
「俺も、蛍雪山岳会の名簿がこんなところで日の目を見るとは思わなかった。平成二年の年明けに君に手紙を書いただろう?前の年の夏に北岳で発見された白骨死体の身元が割れて、それが暁成大学の出身者だった。野村某という名前だったと思うが……」
加納は朝刊に目を落としたまま言い、合田もまたあらぬ加を向いたまま耳を尖らせ、寝そびれて冴え冴えと痛むこめかみに、その一言一句を刻み込んだ。
「わざわざ名簿を入手した理由は」
「野村を殺したという男が出てきたのが平成元年夏。
殺害が昭和五十一年ごろ。
しかしその時点で、野村に関する遭難や事故死の届けは出ていなかった。野村が仮に単独行だったとすれば、北岳にひとりで登る初心者はいないから、どこかの山岳会に入っていた可能性がある。
それで、いくつか山岳会を当たったときに暁成大学の山岳会の名簿も入手した。
当時、野村には鑑がなくて、生前の足取りが掴めなかったものだから、とりあえず山の仲間を探したんだ。
結局、一人も見つからなかったが」
「あんたの担当事件だったわけじゃないのに」
「いろいろ耳に入ってきたからだ。野村という男の身辺がきれいとは言いがたかったのが一つ。実は単独行ではなかったという話もあったのが一つ……」
「そんなバカな話。単独行でなかったら、一緒にいた仲間は死体遺棄やないか……」
「だから調べたんだ」
「不正な事件処理があったとか言ってたが」
「平成元年に甲府地検が被疑者を起訴したとき、野村に関する昭和五十年前後の京都府警の調書一式が行方不明になっていた。野村はそのころ京都で左翼団体の活動をしていて、公正証書原本不実記載とか私文書偽造とかで逮捕歴がある。そのときの調書が消えたんだ。たぶん、そこには野村の鑑がいろいろ書かれていたはずだから、もしその調書があったら、事件は岩田とかいう被疑者を起訴して終わり、というふうにはならなかったかもな」
事件が岩田の逮捕起訴で終わらなかったかも知れない?左翼の活動家
であれ何であれ、被害者の過去をもみ消した目的は、端的に加害者をもみ消すこと以外にないではないか。
ほんとうは岩田はシロだったのか?地検の信じがたいい
い加減さに合田の頭はとっさについていけなかったが、あえて口に出さなかったのは、平成元年の同じころ、自分たち警察もまた上の方針通りに適当な捜査をやり、代官山の泥棒を刑法に則って自動的に送致したからだった。そういえば、南アルプスの白骨死体の事件と妙な縁が出来たのも、あの夏の小台の町工場にたまたま被疑者の岩田老と若い泥棒が居合わせた偶然によるが、今ごろになって突然、釈然としない何かのシミがぼっかり浮かび、消えていった。

(本文P11〜13より引用)

 
 


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