リトル・バイ・リトル
著者
島本理生/著
出版社
講談社
定価
本体価格 1300円+税
第一刷発行
2003/01
ISBN 4-06-211669-3
高校生作家の芥川賞候補作

 

少しずつ、少しずつ、歩いていこう。
楽しいことも悲しいことも、みんな大切な家族の時間とひらかれてゆく青春の息吹。


島本理生

1983年、東京生まれ。
1998年、「ヨル」で「鳩よ!」掌編小説コンクール
第二期10月号当選(年間MVP受賞)。
2001年、「シルエット」で第44回群像新人文学賞優秀作を受賞。
2003年、「群像」2002年11月号に発表された「リトル・バイ・リトル」が第128回芥川賞候補となる。

最終の電車で彼女は帰ってきた。
そのとき、私はベッドで童話を読みながら妹のユゥちゃんを寝かしつけていた。
古いけれど干したばかりの布団を敷いた狭い二段ベッドは日だまりの巣箱のようだったが、彼女の帰宅であっという間に平和な夜は破られた。
深夜だというのに勢いよくドアを開ける、トイレヘと駆け込む忙しない足音。
せっかく眠りかけていたユゥちゃんが跳び起きてベッドを抜け出し、読みかけの童話は結末の手前で放り出されてしまった。
ベッドに一人置き去りにされた私は仕方なく、目付きの悪い挿絵のキリンをぼんやりと見つめていた。
浴びるどころか浸かってきたようにアルコールの臭いを全身から漂わせた彼女は、背中に飛びついたユウちゃんを張り付けたままベッドまでやって来た。
ヒザまで丈のある茶色のトレンチコートを着て、そのポケットを冗談のようにふくらませていた。
「お母さん、この帰宅時間はなに?」
「ふみちゃん。今から手品を見せます」
私の問いかけを完全に無視して、惚然としている私の前でポケットに手を入れると、中から裸のサンドウィッチを取り出した。
白いパンの間にチーズとハムが挟まれているのが見える。母は軽く糸屑を取ると、そのサソドウィッチを自分の口にくわえてから、ふたたびポケットに手を突っ込んだ。
「まずチョコレート。ジッポライター。灰皿に筆ペン。五百円玉。変な亀の置物。治療院の顧客リスト」
しゃがみ込んだ彼女は、そう眩きながら旅行のお土産みたいに一つ一っ床に並べていった。
母の肩越しに見ていたユウちゃんが歓声をあげたが、私は唖然として言葉を失っていた。
「お母さん」
「なに?」
「ものすごく酔ってるのは分かったけど、どこから盗んできたの?」
こんな物は子供でも万引きしないと私が付け加えるより先に、母は大きく首を振ってから顔にかかった髪をかき上げた。
「盗んできたんじゃないの。記念にもらってきたの」
「記念?」と思わず聞き返すと、母は子供のような顔で頷いた。
「そう、記念。職場がつぶれちゃった記念」
樗然として言葉を失った私と母の間で、さっき歯磨きを終えたばかりのユウちゃんがせっせとチョコレートの包み紙を開いていた。
混乱する頭の隅で、もう一度ユウちゃんに歯磨きをさせなくてはならないと思い、私は童話の本を閉じてベッドを出た。
そりゃあ大変だねえ、と柳さんに言われて、そうみたいですね、と答えたら笑われ
てしまった。
まあまあ、でも元気そうで良かった、と調子を合わせてから、彼は私の書いた文字に赤い墨汁のついた筆で添削を始めた。

(本文P.4〜6より引用)

 
 


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