終戦のローレライ 上
著者
福井 晴敏
出版社
講談社
定価
本体価格 1700円+税
第一刷発行
2002/12
ISBN 4-06-211528-X
3賞制覇の傑作『亡国のイージス』から3年余、この沈黙は本作のためにあった。

1945年8月。日本。
敗け方を知らなかった国。

戦争。
もはや原因も定かではなく、誰ひとり自信も確信も持てないまま、行われている戦争。
あらかじめ敗北という選択肢を持てなかった戦争。
茶番と括るには、あまりにも重すぎる戦争。

――その潜水艦は、あてどない航海に出た。太平洋の魔女と恐れられた兵器“ローレライ”を求めて。「彼女」の歌声がもたらすものは、破滅か、それとも――


著者紹介
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■福井晴敏(ふくいはるとし)
1968年東京都生まれ。千葉商科大学中退。1998年、『Twelve Y.O.』で第44回江戸川乱歩賞を受賞し小説家デビュー。1999年刊行の『亡国のイージス』で日本推理作家協会賞、日本冒険小説協会大賞、大藪春彦賞をトリプル受賞した。他の著書に『川の深さは』『月に繭 地には果実』(『∀(ターンエー)ガンダム』改題)がある。

 

絹見真一
戦利潜水艦《伊507》艦長。日本海軍少佐。四十三歳。


高須成美 同艦先任将校兼水雷長。大尉。三十六歳。


田口徳太郎 同艦掌砲長。兵曹長。四十二歳。


折笠征人 同艦乗務員。上等工作兵。十七歳。


清水喜久雄 同艦乗務員。上等工作兵。十七歳。


岩村七五郎 同艦機関長。機関大尉。五十一歳。


木崎茂房 同艦航海長。大尉。三十七歳。


早川芳栄 同艦乗務員。特殊潜航艇《海龍》艇長。中尉。三十三歳。


小松秀彦 同艦甲板士官。少尉。二十四歳。


時岡纏 同艦軍医長。軍医大尉。三十八歳。

しんと凍てついた空気が、冷たさを感じさせるのか?
内奥の空虚が外に染み出して、空気を凍てつかせるのか?
そんなことを考え、思考中枢がちりちりと圧迫されるのを知覚した時には、なにを考えていた
のかも思い出せない空白が「彼女」を支配した。
ずっしりと押し包む水圧をかき分けて、周囲を見回してみる。
切り立った岩礁が前後左右にそそり立ち、粉雪に似た微生物の、死骸がその狭間に降り積もってゆく。
直径十メートルから二トメートル程度、高さは三、四十メートルに及ぶ岩礁の群れは、ひとつとして同じもののない奇怪な形を十重二十重に連ね、不ぞろいな針山の地形を闇の底に広げている。
数十億の年月をかけて岩肌を撫で、岩礁の形を削り出してきた潮流は、そこここで響きあって乱流を生じさせているのだろう。
場所によっては微生物の死骸が音もなく渦を巻き、吹雪のように水圧の層をかき回す光景があった.
知らない海だ。岩礁にひっそりと息づくサンゴやイソギンチャク、時おり行き過ぎる魚の動きから、「彼女」はそう再確認した。
分厚い海水の被膜が地上の光線を遮り、すべてを常闇に溶かし込んだ海底であっても、「彼女」は正確に周囲の事物を観察することができた。
深さによって異なる水温は色の違いになって認識され、生物の息吹きは透明な眩きになって感知野を騒がせる。
それは気候や海流、海底地形のありようひとつで異なる相を示し、世界中どこへ行っても飽きなかったが、いま「彼女」が感じているのは新しい環境に対する興味ではなく、既視感ともつかないある種の懐かしさだった。
触れれば切れそうな岩礁の岩肌も、温暖な海流が流れ込む海面近くの屑も、なにかしら馴染んだ感触を抱かせてやまない。
知らない海のはずなのに、なぜだろう?考えようとして、再び圧迫される感覚を味わった「彼女」は、じっと留まっているからいけないのだ、と微かにいら立った。
岩礁の狭間に身をひそめ、息を殺し始めてから数時間。
停滞は、己を包む闇と静けさを否応なく意識させる。
日頃は無視している冷たさを思い出させて、無為な思考ばかりを加速させる。
一刻も早くここを抜け出し、自由に泳ぎ回りたいという衝動が全身を貫いたが、それは「彼女」の意志でどうにかできる間題ではなかった。
自分で自分の行く先を定める術は「彼女」にはなく、たとえできたとしても、いまは身をひそめていなければならない理由があった。
岩礁の上をゆったりと回遊する、黒い二つの影。
二軸のスクリュープロペラで無遠慮に潮をかき乱し、全長九十メートルを超える巨体を推進させる二つの物体が、「彼女」を岩礁の狭間に押
し留めている理由だった。
細身の魚と見えなくもないそれらは、互いに一定の距離を取り、大きな円を描いて、岩礁に腹をこすりつけないぎりぎりの深さを泳ぎ回っている。
キーン、キーンと甲高い音を立てる金属の鳴き声はやみ、いまは鋼鉄の皮膚の内側で振動する機関の音一プロペラが水を切る音を響かせるのみだが、抜け目なく聞き耳を立てる気配は伝わってくる。
外敵を警戒する海棲生物たちが発するものとは異なる、もっと雑で傲慢な殺気は、この常闇の世界にいるべきではない生き物人間と、彼らが造り出した”機械〃が発する独特のものだ。
それは頭上をかすめるたびに「彼女」を緊張させ、恐怖を呼び起こしさえするのだが、長年の経験で身に備わった神経が反応しているだけのことで、「彼女」の意識の全部を支配するほどのものではなかった。
こちらを捜し回る二つの物体の動きを注意深く観察する一方、「彼女」は"感知"の腕をのばして、物体の硬い殻にそっと触れてみた。
無数の注排水口を穿った滑らかな外板の下に、重油や真水を収めたタンクがあり、耐圧殻がある。
その内側では、きっと百人を下らない人間たちが息づいており、彼らはそれぞれ与えられた仕事をこなし、この巨大な機械を操っている。
誰もが見えない"敵"への恐怖を押し隠して、人が覗くにはあまりにも漠く、あまりにも静かなこの海の底を、手探りで這い進んでいるのに違い
なかった。
そう意識するのは辛く、苦痛という封印した言葉をよみがえらせもしたが、「彼女」は物体の中にある人の存在を意識し続けた。
無意味であっても、そうすることが己を維持することに繋がる。
意識するのをやめた瞬間、自分はこの漠い虚無に呑み込まれ、真実の空虚に帰するだろうという本能的な怖れがあった。
もしくは、人の造った機械と同じ存在……無心に水をかくスクリュープロペラや、金属のソプラノを奏でる探信儀と同等の存在に成り果ててしまう。それは恐ろしいし、申しわけないことだと感じる思考の揺らぎが、「彼女」に物体の中の命を意識させるのだった。

(本文P.7〜9より引用)

 

 
 


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