半落ち
著者
横山秀夫/著
出版社
講談社
定価
本体価格 1700円+税
第一刷発行
2002/09
ISBN 4-06-211439-9
『このミステリーがすごい! ’03年版』 第1位 男が命より大切に守ろうとするものとは!?感涙の犯罪ミステリー

自首。証拠充分。
だが被疑者は頑なに何かを隠している。

実直な警官が病苦の妻を扼殺。捜査官、検察官、裁判官…6人の男たちは事件の“余白”に迫っていった。
警察小説の旗手、初の長篇

「人間50年」――
請われて妻を殺した警察官は、死を覚悟していた。
全面的に容疑を認めているが、犯行後2日間の空白については口を割らない「半落ち」状態。
男が命より大切に守ろうとするものとは何なのか。
感涙の犯罪ミステリー。

 

著者紹介
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■横山秀夫(よこやまひでお)
昭和32年、東京生まれ。国際商科大学卒。上毛新聞社に勤務後、フリーライターとなる。平成3年『ルパンの消息』が第9回サントリーミステリー大賞佳作に。平成10年『陰の季節』で第5回松本清張賞受賞。同12年『動機』で第53回日本推理作家協会賞短篇部門賞を受賞。

志木和正の章

茶柱が立った。
ゲンを担ぐほうではないが、無論、悪い気はしなかった。
神棚のわきの壁時計は五時四十分を指している。
まもなくだ。
夜明けと同時に、懐に逮捕状を呑んだ強行犯捜査一係が『小森マンション』508号室に踏み込む。
小学生女児ばかり八人を凌辱した連続少女暴行魔。
被害届の受理から二ヵ月、延べ三千人の捜査員を投じた組織捜査の巨大な網が、たった一尾の魚を捕るために引き揚げられる瞬間だ。
─うまくやれ。
志木和正は、茶柱もろとも冷めた茶を飲み干した。
W県警本部捜査第一課強行犯指導官。
四十八歳。
今春、警視に昇任して「刑事頭」とでもいうべきこのポストに就いたが、そうでなければ、今時分、一係の連中とともにマンション近くの車の中で息を殺していたはずだ。
静まり返った捜査一課のデスクで一人、部下からの連絡を待つという役回りは、もどかしいことこの上ない。
五時五十分……。
志木は直通電話に目を落とした。
身を乗り出さなくても受話器をすくえるよう、あらかじめデスクの手前ぎりぎりに引き寄せてある。
身柄確保。
一係を仕切る鎌田班長の声を聞くまではトイレにも立てない。
窓の外はまだ暗かった。
山裾は淡いオレンジ色に染まっているが、踏み込みの合図となる日の出には早い。
焦れったい。
地球の自転とはこれほどのろいものだったか。
志木は煙草に火をつけた。上方に勢いよく紫煙を吐き出す。
十歳の少女がむしり取ったポロシャツの貝ボタン……。
そのボタンに付着していた微量の顔料……。
細い線が短大の美術講師に辿り着くまでに六十二日間を要した。
高野貢。
二十九歳。
独身。
志木の手元にスナップ写真が届いている。
なんとも精気に乏しい顔だ。
多くの分家を従える富裕な農家の三男坊。
血族のぬるま湯にどっぷり漬かり、絵筆片手に芸術家気取りで生きている。
─今日限りってことだ。
志木は壁の時計と腕時計を見比べた。
ともに六時七分。
入ったか。
緊張感が全身に濠った。
自ら踏み込む時より鼓動が速い。
二本目の煙草に火をつけた。
夜明け。
そう呼べるだけの明るさが窓の外にある。
六時十分。
もう入ったろう。
電話を見つめる。
鳴れ。
心に念じた。
その時だった。
「指導官」
声に目をやった。
広々とした課の一番奥、刑事部当直室のドアが開き、盗犯特捜係の土倉巡査が童顔を突き出していた。
庁舎の玄関当直とは別に、深夜の事件対応要員として泊り込んでいる。
「何だ?」
怒鳴るように返すと、土倉も「電話です!」と声を張り上げた。
「回せ!」
本当に怒鳴って志木は舌打ちした。
鎌田のやつ、連絡は直通に寄越せと言っておいたはずだ。
煙草を揉み消し、内線電話の受話器を握って待った。
ベルと振動。
ひったくるように取る。
「志木だ」
〈朝早くにすみません〉
鎌田の声ではない。
〈中央署の石坂です。ちょっと困ったことになりまして……〉
W県警のお膝元、W中央署の当直長からだった。
「何があった?」
志木は手前の直通電話を気にしながら聞き返した。

(本文P.5〜7より引用)

 

 
 


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