絵本『世界がもし100人の村だったら』へと生まれ変わったネットロアは、2001年9月11日にアメリカで3機の飛行機が同時に衝突・墜落したのを機に、おもにメーリングリストとメールマガジンを経由して、日本国中に広まった。
英語圏を中心に世界を漂流していたひとつのネットロアが、日本に上陸したのち、「ある学級通信」となってわたしのパソコンに入ってくるまでの経路は、本の刊行後、明らかになった。
送信のアイコンをクリックした人びとの心を占めていたのは、戦争、はげまし、環境、教育だったということも。
9月下旬、30人ほどが参加するある教育関係のメーリングリストで、アメリカの大惨事について意見が交換されていた。
そこに24日、倉敷(岡山)に住む教育家の平川洋児さんが、「もしも今日がついてない一日だと感じたあなたも/これを読んだら現実が違って見えるかも……」に始まる「詩」を投稿した。
それは、この年の3月にカウンセラーの中野裕弓さんが英語から訳したネットロアだった。
平川さんは、初夏に中野さんからコピーで入手したこ
の「詩」をこのときデータ化し、メーリングリストに流したのだ。
平川さんは、アメリカ中心の見方にやんわりと疑間を呈し、世界がこんなありさまだからああいうことも起きるのでは、と書おうとしたという。
これを受信した教師の鵜戸俊博さんが、その日のうちに、鹿児島を中心とする先生方のメーリングリストに流した。
ここでも戦争が話題になっていた。
その参加者、市原(千葉)の五井中学校の生稲勇さんは、これに、先生方のメーリングリストに戦争関連のやりとりのなかで流れたもの、とのコメントをつけ、視野を広げ、自分の幸せに気づこう、という思いをこめて、翌25日、メールによる学級通信に取り上げた。
生稲さんのクラスに時田若菜さんがいた。
若菜さんのお母さんは、これは元気の出る話だと思って、29日、全国およそ800店の酒屋さんが参加するメーリングリストに転送した。
時田さんの家は酒屋なのだ。そのとき時田さんは、「こんばんは、千葉のトキタです。うちの長女の中学校の担任の先生は」にはじまる前書きをつけた。
これを、高松(香川)の柳原満紘さんが、10以上の環境ボランティア関係のメーリングリストに流した。
それは10月1日の深夜のこと、日付はもう2日になっていたという。
柳原さんは「こんばんは、千葉のトキタです」という冒頭の一文を削った。
このネットロアが「ある学級通信」となって一気に広まった瞬間だ。
何十人、ときには何百人が参加しているメーリングリストに投稿されたメールは、すべての参加者のパソコンに届くのだから。
屋久島(鹿児島)在住の、環境間題に関心をよせる作家・翻訳家の星川淳さんは、いずれかの環境関連メーリングリストから、「ある学級通信」を受けとった。
星川さんは、冒頭に「いい先生がいるんだなア」と書き足して、自分のメールマガジンでこれを紹介した。
その購読者のひとり、語りの研究・実践をしている櫻井美紀さんが、わたしにダイレクトメールで「ある学級通信」を送ってくれた。
それは10m月4日、教育関係のメーリングリストにネットロアが流れてから11日目のことだった。
本の刊行後、たくさんの読者からメールをいただく。その多くは、「世界がこんなだとは知らなかった」と驚き、「自分が恵まれていることに気づいた」とみずからを省み、さらに「わたしにできることはなんでしょう?」と間いかけている。
わたしは、ひとりひとりが自分自身やまわりの人びとを大切にすること、戦争や環境のことを思ってちょっとした選択をすることがまず第一なのでは、という思いをこめて、「あなたが心をこめて生きてください」とお返事したりする。
Think global,act local.
これは、バックミンスター・フラーというアメリカの建簗家が好んで使ったことばだという。
訳せば「地球全体のことを考えて、身近なところでなにかしよう」となるだろうか。
まさに、『世界がもし100人の村だったら』のメ
ッセージを集約したことばだ。
わたしに限っていえば、ネットロア「ある学級通信」を『世界がもし100人の村だったら』へと書き改めるために、日々この現代のメルヒェンに心をひそめていたとき、こんな問いかけを聞き取っていた。
「あなたが生き難いのはよくわかる。そのあなたはこういう世界に生きている。それを知ったからといって、残念ながらあなたの生き難さは変わらない。けれど、自分がかけがえがないと思えてこない?だとしたら、今まで会ったこともない、これからも会うこともない誰かのことも、あなたと同じようにかけがえがないと思えてこない?」
じつは、「もしもたくさんのわたし・たちがこの村を愛することを知ったなら、まだ間にあいます」と始まる最後のページは、対訳者のダグラス・ラミスさんがつけた「尾鰭」だ。
これがあることによって、メッセージはたんなる癒しを超え、そっと背中を押す本という性格をはっきりと打ち出した。
現代のメルヒェンは、期せずして原案者となったドネラ・メドウズさんの地球環境への思いに発し、無数の人びとの気持ちをくぐって、ダグラス・ラミスさんの平和への思いにたどりついたのだ。
『世界がもし100人の村だったら』のあとがきに、わたしは「世界が変わり始めた日」と書いた。
それが多分に希望のことばでしかないことは、書きながらわかっていた。
非道な力は、今も村人を引き裂き、傷つけている。
にもかかわらず、2001年9月11日は、世界が変わり始めた日でありつづけている。
あの日以来、なにかがおかしい、わたし・たちはどこかで間違ってしまったのかもしれない、との思いは、日々の暮らしにたまさか現れては消えるそこはかとない影であることをやめた。
さらに、それまでは「情」を「報」るものでしかなかった「情報」は、「情」に「報」いるものでもあることに、たくさんのわたし1たちが目覚めた。
つまり、インターネットによって個からときにはグローバルに発信される情報をとおして、「なにかがおかしい」というわたし・たちの心も共有され、世界は二重の意味で真に情報の「村」になったのだ。
(本文P.6〜8より引用)
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