猫道楽
著者

長野まゆみ

出版社
河出書房新社
定価
本体価格 1100円+税
第一刷発行
2002/06/10
ISBN4−309-01471-2
猫シャッター 求む ─ 猫飼亭

<猫飼亭>という風変わりな屋号。2蔵造りの厳しい構え。膝の上に灰色の猫をのせ、喉を撫でつつ煙管を遣う若い男。この屋敷を訪れる者は、猫の世話をするつもりが、<猫>にされてしまうという……。妖しげな極楽へ誘う傑作!

 

長野 まゆみ (ナガノ マユミ)
1959年東京生まれ。女子美術大学卒業。『少年アリス』で文藝賞受賞。以後『天体議会』『賢治先生』『新世界』他数々のベストセラーで10代の少女たちを中心に熱狂的に支持されている。

 

櫻の季節には、日ごろの無粋者も少しは景色に心を奪われ、春欄漫の花吹雪に酔いもする。
梓一朗も、そんな学生のひとりだった。
下宿の門口の枯れ木として認知されていた櫻が、何の拍子かこの春は見事に花を咲かせた。
三分、五分と焦らして気をもたせ、ようやく満開になった。
その枝は二階の軒先まで伸び、一晩じゅう開け放しだった窓から花びらを散らした。
目醒めた一朗は、ところ介意わず室じゅうに散った花片にしばし見とれた。
布団も畳も、にわかに雲母びきの御殿となった。
北向きの室でいい思いをしたのは、これが初めてだった。
掃除はあえてしなかった。
どのみち、櫻のあるかぎり絶え間なく零りそそぐ。
しばらくそのままで過ごすことにした。
一朗は下宿の向かいのバス停から大学まで、通学に路線バスを利用する。
その朝も、ひとつ手前の十字路にバスが差しかかったのを窓から確認して室を出た。
櫻の下に迷い猫がいる。まだ遊びたい盛りの灰色の仔猫で、頭から背中へかけてひと筋だけ鼠のように黒い毛がまじっている。
零りつもる花びらが舞いあがるのを追って、身軽く跳びはねた。
一朗が声をかけても知らん顔だ。
彼はゆっくりした歩調で通りを渡り、到着したバスに乗った。
二人掛けシートに空席を見つけ、悠々と独りで陣どっていたが、発車まぎわに駆け乗ってきた少年が、一朗の隣りへ腰かけた。
どこかの制服らしい紺色の上着から白い衿がのぞく。
櫻の下を通り抜けてきたのだろう。
上着についた花びらを指先ではらっている。
その術きかげんの項に窓の淡陽が射して、真新しい帆布のように眩しく反射した。
少年は前髪を額の中途半端な位置で切り下げにしていたが、稀にみる調った顔だちゆえに滑稽にはおちいらない。
澄みきった頬の持ち主で、唇も薄紅色だった。
姿は確かに少年なのだが、なんとも説明のつかない危うさを宿している。
少年は小さくくしゃみをひとつした。
一朗はあまりにも長く注視していたことに気づいて、窓の外へ意識をそらした。
「……あ、花びらが耳のなかにある、」
無邪気な声だった。少年は一朗の耳を覗きこんでいる。
花びらに埋もれた布団で目醒めて以来、一朗もそんな予感はしていた。
ずっとくすぐったい感触があった。
指で取り出そうとしたが失敗し、さらに奥へ入ってしまった。
「取ってあげる、」
そう云うなり、少年は一朗の耳もとへ顔を近づけた。
何か熱いものが耳へ触れたと感じたときは、少年はとっくに一朗の耳へ口をつけていた。
ほら、と笑って舌を見せる。
その先に花びらがあった。
成り行きに唖然とした一朗は、次の停留所で降りてゆく少年を声もなく見送った。
一朗の目下の関心事は、五月の連休に女友だちと出かける小旅行の費用をどう捻出するかということだった。
彼女は温泉旅館で和みたいと勝手な希望を口にする。
しかも、全額とは云わないまでも、三分の二は負担してほしい、それがふたりの欲望にたいする公平な割り当てだ、とこうなのだ。
複数の親密な男友だちがいるのは確実で、しかも焦らし癖のある彼女にたいして納得のゆかない一朗だったが、とりあえず資金は必要だ。
学生課の掲示板は、大いに込み合っていた。たいていの学生より頭ひとつ分大きい一朗は、群がる頭越しに求人票へ目を凝らした。(本文P3〜5から引用)
 

 

 

   

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