あかんべえ
著者
宮部みゆき
出版社
PHP
定価
本体価格 1800円+税
第一刷発行

2002/03/29

ISBN4−569−62077−9
へえ ・・・・ ここに亡者がいるんです。見えないかもしれないけど 確かにいるんです。

江戸・深川の料理屋に化け物が現れた。娘・りんがその騒動を探るうち、恐ろしい過去の事件が浮かび上がり……奇想天外!  長編時代ミステリー。

解説:おりんの両親が開いた料理屋「ふね屋」の宴席に、どこからともなく抜き身の刀が現れた。成仏できずに「ふね屋」にいるお化け・おどろ髪の仕業だった。しかし、客たちに見えたのは暴れる刀だけ。お化けの姿を見ることができたのは、おりん一人。騒動の噂は深川一帯を駆け巡る。しかし、これでは終わらなかった。お化けはおどろ髪だけではなかったのである。

 なぜ「ふね屋」には、もののけたちが集うのか。なぜおりんにはお化けが見えるのか。調べていくうちに、30年前の恐ろしい事件が浮かび上がり……。死霊を見てしまう人間の心の闇に鋭く迫りつつ、物語は感動のクライマックスへ。怖くて、面白くて、可愛い物語のラスト100ページは、涙なくして語れない。

 オーソドックスな時代小説を思わせる始まりだが、物語はミステリーに、ファンタジーへと変化する。ストーリー・テラー宮部みゆきが、その技を遺憾なく発揮した、最高の時代サスペンス・ファンタジー!

 

 

 

本所相生町一ツ目橋そばの高田屋は、主人七兵衛が庖丁の腕一本で興し、大きくしてきた賄い屋である。
賄い屋とは、別名「お賄い」「炊出し」とも呼ばれる、いわば弁当屋のことである。江戸城中の役人や、見附警護の役人たち、三百諸侯の武家屋敷や組屋敷に弁当を入れる稼業である。
人の暮らしに食事は欠かすことのできないものであり、偉いお侍だって腹はへるのだから、これは結構に大きな商売だった。
とはいっても、けっして易しい商いではない。
高田屋も、ここまで来るには並大抵の道のりではなかった。
ひとつには、相手は三百諸侯でも、その大方が金詰まりで、削れるところは爪先の皮まで削れという具合につまつまやりくりをしているところばかりだということだ。
ひしめきあう商売敵をかわして出入りの賄い屋の座をつかむには、時には儲けをつぶしてでも安くて旨い弁当を運ばねばならない。
もうひとつには、最初から相手が決まっている商いなので、右には義理があり、左には遠慮があり、上にははばかりがあり、下にはつてがあるという具合で、何でもいいからいい仕事をして、派手に売り出せばそれで大繁盛というわけにはいかないということである。
とりわけ、新参者が食い込むのは難しい。
七兵衛はもともと江戸の生まれだが、親の顔もはっきり覚えていないうちに捨てられ、世間の垢と泥にまみれて育ち、十二、三のころには、見事、かっぱらいや泥棒は当たり前、他人のことなど頭から信用しないという、拗ねた目つきの子供に仕立てあがっていた。
そのまま進んでいたら、立派に一人前のごくつぶしになっていたことだろう。
七兵衛の道が変わったのは、十三の歳の春、花見のころに、にぎわう浅草の花見客相手に繁盛していた天ぷら屋台からかっぱらいをして、逃げ切れずに捕まったときだった。
この天ぷら屋台の親父は、一見、煮染めたような顔色の爺に見えたが、どうしてどうして七兵衛を追いかける足は章駄天のように速く、あっと思ったときにはもう後ろ首をつかまれて、ぐいとつり上げられていた。
後で判ったことだけれど、この爺はこうしてかっぱらいの子供をとっ捕まえるのが得手で、今までにもたくさんの手柄があったのだという。
捕らえた子供を番屋に突き出すようなことはなく、か
っぱらった分だけ屋台を手伝わせ、説教をして放してやるのが大好きだという、捕らわれた側から見れば、便所虫のように嫌らしい爺だった。
爺は七兵衛も同じように扱った。
屋台の後ろで洗い物をさせ、お客に頭を下げさせた。逃げようとすると、そのたびに疾風のように追いかけてきてとっ捕まえる。
七兵衛は二刻(四時間)のあいだに八度逃げ、そのたびに捕まって、最後にはすっかり息があがってしまったが、爺は涼しい顔をしていた。
屋台を畳むころになって、こき使われた疲れと、逃げ損なった疲れとでぐったりしている七兵衛をつくづくとながめ、爺は何を思ったのか、飯を食わせてやるからついてこいと言った。
七兵衛は逃げようと思ったのだが、すっかり腹ぺこで、思うように走れない。
他に思案もなかったので、足を引きずってついていった。
爺は屋台を引いててくてくと歩き、本所松坂町あたりまでやってきた。
当時はまだ家数も少なく、爺が顎の先で指し示した家も、傾いた惨めな長屋の一角で、これならば、そのころ七兵衛が寝ぐらにしていた観音様近くのお稲荷さんの床下の方がずっとましなくらいだった。
もちろん、そこが爺の家で、障子を開けて入ってみると、なかは存外きれいに片づけられていた。
爺はそこで、冷や飯に梅干しを添えて食わせてくれた。
天ぷらはねえのかと訊くと、あれは商売ものだ馬鹿野郎と、ぼかりとやられた。
爺は茶漬けを食ったが、七兵衛は飯を三度替え、三杯目は茶が間に合わずに白湯をかけて食った。
爺は一杯だけにして、後は飯茶碗で茶を飲みながら、がつがつ食う七兵衛をじっと見据えていた。
七兵衛がやっと飯茶碗から顔をあげ、大きなげっぷをすると、爺は笑った。
そして言った。
おめえは、俺のとっ捕まえたかっぱらいのガキのなかでも、いちばんしぶとく逃げ出そうとした奴だ、
今まで、二刻のあいだに八度も俺を走らせた奴はいなかったと、なんだか気持ちよさそうだった。
七兵衛は黙っていた。
爺もしばらく黙っていた。
それから、明日も飯は食いたいかと訊いた。
当たり前のことなので、七兵衛は当たり前じゃねえかと答えた。
すると爺は、それなら明日も俺を手伝えと言った。
──働けば、飯は食える。
世の中は、そういうふうにできてるんだ。
七兵衛は、このころの思い出話をするとき、彼をとっ捕まえ、結果的に彼の人生を立て直してくれたこの爺の名前を言おうとしない。
ただ「爺さん」とだけ呼ぶ。

本文P.3〜5から引用

 

 

 

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