青春の東京地図
 
  地図を眺めていると記憶のなかの町並みがよみがえる。生まれ育った新宿区下落合界隈。学生時代の想い出がつまった渋谷、青山、六本木、自由ヶ丘。ちょっと妖しい雰囲気が漂った新宿、池袋。古き良き風情がのこる神田、上野………。もう残っていない、見ることのできない昭和3、40年代の東京を、当時の住宅地図や自家製バス路線図などを手がかりに辿っていく。原っぱの風景、CM、ヒーロー物から、喫茶店、ディスコ、音楽や映画まで、少年時代、青春時代の回想をかさねて、軽やかに、ユーモラスにつづる、自伝的東京案内。  
著者
泉麻人
出版社
晶文社
定価
本体価格 1600円+税
第一刷発行
2001/12/15
ご注文
ISBN4−7949−6505−2

T ぼくのご近所地図

スガ屋と仁丹ガム


物心つく頃のことを、思い出してみたりする作業は愉しい。
そういうことは皆、老い先短くなってから始めるというが、僕は、小学生の頃から、自分が幼稚園児だった時代のことを回想したりする癖があった。

母親の話を手掛かりに、ああそういえば、あの頃は(せいぜい三、四年前のこと准のだが)あーだったんだよた……とか、そうだよパンエ場があったよ確かに……とか、丸山のバス停から先って狭い砂利道だったんだ……なんてことを。

僕は昭和三十一年の四月に、新宿区の下落合(現・中落合)という町で生まれたのだが、ここでは、そんな僕が物心つく頃、物心ついて三、四年くらいまで─昭和三十五〜三十九年あたり・・・・の、主に"ご近所"の地図を、記憶を手繰りながら描いて、当時の僕の視野に引っ掛かった様々たモノや事について、思いつくままに書きつらねてみよう、と思う。
下落合、正確にいえば「下落合四丁目」の北西の端、現在、目白通り(新青梅街道)と新目白通りとが交わる通称・西落合三丁目(当時・二丁目)交差点近くに僕の家はあった。
バス通り(目白通り)に面して、丸正スーパーがあり、その裏手が僕の実家・朝井家、である。

丸正は、まだ当時はスーパー風のつくりではなく、路傍に野菜やくだものを並べた、いわゆる町の八百屋さん、であった。
店内は、灰暗い三和土の通路のなかに、所々、裸電球などがぶら下がった、闇市マーケットの雰囲気であった(と言っても、もちろん僕は闇市は知らない)。
迷路状の灰暗い丸正のなかを通り抜けたりするのが、面白かった。"御用聞きのシミズくん"というお兄ちゃんがいて、彼はつまり家に注文などを取りにくる、いまや死語とたった八百屋の御用聞きの人で、僕と弟はよくシミズくんにアソんでもらった。

自転車の補助輪を取るときも、シミズくんに後押してもらって練習したことを憶えている。
丸正の通路の際には、裸電球(上に緑色の碓郷塗りの傘がくっついていたか……)やら所々に、ハエ取り紙がぶら下がっていた。黄土色のベタベタしたハエ取り紙を四枚くらい吊り下げて、ぐるぐると回転するマシンーあれは、当時の八百屋、魚屋、乾物屋、とい った店には必ず備えられていたものだ。ゴキブリはいまだ健在だが、ハエの数はほんとうに少なくなった。キンバエ、イエバエ……それと、黒光りしたバカでかいやつ。

図鑑で調べるとオオクロバエってやつだが、この黒くてでかいハエには、なかなかお目にかかれなくなった。
家の前にドブが流れていた、というのも影響しているのだろう。
ドブは汚くていやだが、子供にとっては、お宝が落っこっていることがよくあった。

使い古しのメンコ、ゼー玉、ベーゴマ。
僕の時代は、野球ヒーローといえば、もう長嶋、王の時代だったが、ドブのなかには、別当とか別所といった、ちょっと前時代のヒーローの各を彫りこんだクラシックもんのベーゴマが落っこっていたりする。

家から四、五十メーターほど奥に入ったところに、長屋の並んだ路地があって、その一角で僕よりも四、五年上の兄ちゃんたちが、漬物の樽を台にして、ベーゴマをやっていた。
ユニフォーム姿の別当や別所選手は知らなかったが、彼ら年長老のベーゴマを眺めて、なんだか知らないが「別当」や「別所」の名を僕は記憶したのである。

べーゴマの兄ちゃんたちのなかに、少々吃り気味の、特徴のある喋りをする人がいた。
「お、お一れさあ、だ、だーめだよ、また負ーけちゃったよお……」と、テレビでやっていた「ラーメン親子」の芦屋雁之助みたいな喋り、であった。

 

 

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