雅子妃とミカドの世界
 
  昭和天皇による側室制度の廃止は皇室の近代化をもたらした。しかしその一方で、直系男子を絶やさぬための安全弁は取り払われ、皇位継承者を産む重責は、ひとり皇太子妃が負うこととなった。雅子妃が皇室に嫁いでから、懐妊、出産へといたる九年間は、まさに「日嗣の皇子」誕生への多大な期待とともにあったといえるだろう。開かれつつある皇室と、いまだ開かれざる皇室の狭間で、「皇室の女性たち」に求められる役割とは何なのか。女官制度の歴史や変遷をも辿りつつ、天皇制における女性の役割を検証し、皇室に生きる女性たちの今に迫る。  
著者
小田部雄次
出版社
小学館文庫/小学館
定価
本体価格 514円+税
第一刷発行
2002/1/1
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ISBN4−09−404163−X

はじめに

「全くばかげている」と、東大医学部の「お雇い教師」であったエルウィン・ベルツは明治三十四年(一九〇一)九月十六日の日記に書いた。
東宮(皇太子)嘉仁と東宮妃節子の第一皇子が親元から離されるからだ(トク・ベルツ編・菅沼竜太郎訳『ベルツの日記』上)。
東宮嘉仁とは後の大正天皇、東宮妃節子とは後の貞明皇后である。

前年の五月十日に結婚した嘉仁と節子は、結婚一年後の四月二十九日に男子を産んだ。
男子は皇太孫で、生後三日目に実母である東宮妃節子の乳をふくんだ。
御七夜にあたる五月五日、迪宮裕仁と命名された。

後の昭和天皇である。
裕仁皇太孫は、御七夜の後に狸穴の川村純義伯爵家にあずけられ、矢崎しげ、増田たまの二人が乳母として仕え、また純義の娘花子(後の柳原義光夫人)らが身の回りの世話をした。
川村純義は天保七年(一一八三六)生まれで、裕仁誕生当時は六十五歳であった。

元薩摩藩士の海軍軍人であり、宮中顧問官、枢密顧問官などを歴任した薩派の重鎮であった。
純義は裕仁に続いて第二皇子の淳宮雍仁(後の秩父宮)の養育もまかされた。純義は明治三十七年八月に死去し、没後、大将となった。

川村伯爵家は長子の鉄太郎が継いだ。
明治三十七年十一月、満三歳となった裕仁は青山御所(東宮御所)にもどり、傳育官と女官によって育てられることになった。

女官には岩崎つや子、侍女に鈴木たか子(太平洋戦争終結時に首相となった海軍大将鈴木貫太郎の夫人)、渥美千代子、清水しげ子、坂野すず子らが順次選ばれた。
ベルツは、生後間もない裕仁が実の父母から離されて、その養育が老齢の海軍軍人にまかされる風習に憤ったのである。

川村伯爵家に赴いたベルツは、「この七十歳にもなろうという老提督が、東宮の皇子をお預かりしている。なんと奇妙な話だろう!」
「このような幼い皇子を両親から引き離して、他人の手に託するという、不自然で残酷な風習は、もう廃止されるものと期待していた」と日記に記した。
ベルツは、東宮妃が泣きの涙で「赤ちゃん」を手離したことに同情し、実の両親が毎月数回、わずかな時間しか会えないことを嘆いた。

「自分の聞かされた理由なるものは、すべて全然根拠がない。たとえば、妃の側近には、子供について何も知らない老嬢女官しか居ないからというのだ。それならばなぜ、既婚の婦人をお付きに置かないのだ?なおまた、東京の勤め人の妻である乳母が、現に来ているのだし、赤十字の老練な看護婦が二、三人詰めきっているうえ、侍医も毎日幼い皇子を見舞っているではないか。
全くばかげている」と憤慨した。

ベルツは、皇子養育をどうしてドイツやイギリスの王室に範をとらないのかと怒った。
ベルツの嘆きから四半世紀ほど後の大正十四年(一九二五)十二月六日、裕仁皇太子と良子皇太子妃の第一皇女照宮成子が生まれた。
照宮はかつてのように「里子」に出されることなく、裕仁と良子の膝元に育った。

飯島かず、平山しづ、辰巳恒女の三人の乳母、山岡淑子養育掛、北村民枝女官などが仕え、裕仁が天皇に即位して後も宮城にて向親とともに過ごした。
しかし、照宮が五歳になった昭和五年(一九三〇)、側近から「親子別居」の養育方針が出された。
天皇皇后のもとにいると「奉仕がしにくい」というのである。

天皇と皇后は、この方針にやむなく従い、「旧本丸内」という条件で皇子女のための新殿を建設することにした。
昭和六年に地鎮祭があり、翌年に呉竹寮と名づけられた。

呉竹寮は照宮ばかりでなく、将来は三女孝宮、四女順宮も、天皇皇后のもとから離れて住むことになることを考慮して設計された(二女久宮は天逝)。
裕仁天皇自身は家族的な団簗を求めていたが、できなかったのだ。

 

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