国民の教育
 
  日本の将来のためにいまこそ、真剣に教育を考えるとき!教育には日本に求めれれているすべての答えがある。  
著者
渡辺昇一
出版社
産経新聞社
定価
本体価格 1714円+税
第一刷発行
2001/11/10
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ISBN4−594−03301−6

 

はじめに

日本の教育は戦後ずっと日本という国と、日本人という民族を解体させることに努力してきたのではないか、という思いが、このごろますます強くなってくるのを押さえることができない。
つまり「日本に悪しかれ」という願いを持った勢力が、日本の教育を動かしてきたのではないか。

一例を挙げてみよう。
昭和二十年の敗戦は日本がかつて経験したことのない大事件であり、国民はただただ呆然とした。

日本の大都市六十ぐらいは焼き払われ、原爆まで使われた。
陸軍は戦死約百五十万人、海軍は世界無敵を誇った連合艦隊も、航空部隊もあらかた海底に沈み、それと共に数十万の将兵が運命を共にした。

また数十万人の市民も空襲によって殺された。
大陸には帰国できない軍人や一般人が百万人以上もいた。

日本はどんなに混乱しても不思議はなかった。
ところが大きな混乱はなかったのである。

大都市でコリア人が暴れたり、闇市場での喧嘩はあったかも知れないが、国全体としては整然としていた。
こうした終戦直後のころ、ベストセラー『気違い部落周游紀行」を書いたきだみのる氏がコリア人の青年に出会った。

彼はその青年に言った。
「これからは君たちの時代だね」と。

そうしたら、意外にもその青年はだいたい次のように答えた。
「いや違います。私は以前は日本人が嫌いでした。しかし今この敗戦という大変な事態なのに、日常の生活は変わらない秩序を保って行われています。

私の国ならこんな具合にはいきません。
私はこれから本当に日本人から学ばなければならないと思っています」この青年の言ったことは事実と言ってよいであろう。

私の住んでいたところは東北の田舎町だから、とくにそうだったのかもしれないが、敗戦の前も後も生活は同じであった。
しいて言えば、旧制中学に登校するときに、ゲートルを巻く必要がなくなったぐらいのものであった。

その敗戦から間もないころに、天皇陛下(昭和天皇)は全国をおまわりになって国民に親しく接しようとなされた。
警備はなきに等しかった。

私も川の土手の上で、川から上がったままの半裸姿で、偶然にも天皇陛下のお車を迎えることになった。
一緒に泳いでいた連中も一緒に並んだ。天皇の車を護衛する警察のオートバイも何もなかったから、天皇と私たちの距離はニメートルもなかったであろう。

何しろ狭い土手の上なのだ。
私はその天皇の車に触ることもできた。

このような無防備のまま、昭和天皇は工場なども訪問されて「民衆」に囲まれたのである。ある労働者が握手を求めたら、「日本式にお辞儀にしましょう」と答えられたという話もあった。

実際日本中で握手してまわられたら、天皇の手はこわれたかもしれない。
このことを思うと、今更ながら私は驚かざるをえないのだ。

天皇を暗殺しようと思えば、ピストルも日本刀もいらず、台所にある出刃包丁で簡単にできたであろう。
しかしそんなことをする人は誰もいなかった。昭和天皇もそんなことを心配されなかったし、警察もそんな心配をしなかったのである。

戦場でひどいめにあった帰還兵、夫を失った未亡人、息子を失った親、父を失った子どもなど、無数にいたのだ。
しかし昭和天皇を恨んで危害を加えようという日本人は一人もいなかったのである。

日本人にとっては、この前の戦争が昭和天皇に責任があるという発想はなかったから、昭和天皇の全国御慰問はひたすら歓迎されたのである。
これに驚いたのは、むしろ外国の新聞であった。

敗戦国の元首が「民衆」から熱烈歓迎されるのを見て、イギリスの新聞などは明らかに日本人を見直している感じさえあった。
それが半世紀もたつかたたぬ間にいかに変わったか。

昭和天皇が崩御され、多摩御陵に移されるときの警戒体制を思い出してみられたい。
沿道すべて警官であり、それにもかかわらず爆弾で妨害しようという者が出た。

この極端な変化はどうして起ったか。
すべて戦後の教育のせいである。

本書では日本の教育の根底にかかわる問題と、それに対応する私見を率直に述べたものである。
そして現在の日本の教育問題の根っこの部分に注目していただければ幸いである。

渡部昇一

 

 

 

 

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