13階段
著者
高野和明
出版社
講談社
定価
本体価格 円+税
第一刷発行
2001/08
ISBN 4-06-210856-9
江戸川乱歩受賞作 無実の死刑囚を救いだせ。期限は3ヶ月、報酬は1000万円。最大級の衝撃を放つデッド・リミット型サスペンス!

無実の死刑因を救い出せ。期限は3ヵ月、報酬は1000万円。喧嘩で人を殺し仮釈放中の青年と、犯罪者の矯正に絶望した刑務官。彼らに持ちかけられた仕事は、記憶を失った死刑囚の冤罪を晴らすことだった。最大級の衝撃を放つデッド・リミット型サスペンス!第47回江戸川乱歩賞受賞作。

序章

死神は、午前九時にやって来る。
樹原亮は一度だけ、その足音を聞いたことがある。

最初に耳にしたのは、鉄扉を押し開ける重低音だった。
その地響きのような空気の震動が止むと、舎房全体の雰囲気は一変していた。

地獄への扉が開かれ、身じろぎすらも許されない真の恐怖が流れ込んで来たのだ。
やがて、静まり返った廊下を、一列縦隊の靴音が、予想を上回る人数とスピードで突き進んで来た。

止まらないでくれ!ドアを見ることはできなかった。
樹原は、独居房の中央に正座したまま、膝の上で震える指を凝視していた。

頼むから止まらないでくれ!そう祈る間も、猛烈な尿意が下腹部に押し寄せてくる。
足音が近づくにつれ、樹原の両膝がガタガタと震え始めた。

同時に、ねっとりとした汗に濡れた頭部が、意志の力に抗いながら、ゆっくりと床に向かって沈み込んで行く。
タイルを踏みしめる革靴の音はどんどん大きくなった。

そしてついに部屋の前まで来た。
その数秒間、樹原の体内にあるすべての血管は拡張され、破裂しそうな心臓から押し出された血液が、体毛の一本一本を揺るがせながら全身を駆けめぐった。
だが、足音は止まらなかった。

それは部屋の前を通り過ぎ、さらに九歩進んで不意に途絶えた。
自分は助かったのかと思う間もなく、視察口の開閉音に続き、独居房を開錠する金属音が聞こえてきた。

空房を一つはさんだ、二つ隣のドアのようだ。「一九〇番、石田」低い声が呼びかけた。
警備隊長の声か?「お迎えだ。出なさい」

「え?」聞き返した声は、意外にも頓狂な響きを含んでいた。
「俺ですか?」

「そうだ。出房だ」
そこから急に辺りは静まり返ったが、沈黙は長くは続かなかった。

まるで誰かが音量つまみをひねったかのように、突如として大音響が響きわたった。
プラスチック製の食器が壁に当たって跳ね返る音、入り乱れる足音、さらにはそうした騒音をかき消す動物的な砲陣が─―人間の声とは思われない絶叫が続いている。

やがて、放屍と脱糞のくぐもった音に続き、びちゃびちゃと水たまりを踏み荒らす不快な響きが聞こえてきた。
そこにはなぜか、壊れたスピーカーががなり立てるような雑音が混ざっていた。

少しの間、樹原は音の正体を見極めようと耳を澄ました。
やがて、そのガーガーという雑音の中に、かすかな呼吸音が混ざっているのに気づいて傑然とした。

それは死の恐怖に堪えかねた人間が、食物や消化液を嘔吐している音なのだ。
今、房内から連れ出されようとしている男の口からは、吐濡物が物凄い勢いで噴出されているに違いない。

樹原は両手を口に押しつけ、必死に吐き気をこらえた。
しばらくして雑音が小さくなり、喘ぎ声と鳴咽だけが残った。

しかしそれも、ふたたび進み始めた靴の響きと、重い荷物を引きずるような音とともに遠ざかって行った。
房内に静寂が戻ると、樹原はもはや、座っていることすらもできなくなった。

懲罰などはどうでもよかった。彼は規律違反を承知で、前にのめるように畳の上に突っ伏した。
あの時のことを思い出すと、今でも寒気に襲われる。

樹原が東京拘置所の死刑囚舎房、通称『ゼロ番区』に収監されてから三年後のことだ。
あれからもう、四年近くの歳月が流れている。

(本文より引用)

 
 


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