冷静と情熱のあいだ rosso
 
  穏かな恋人と一緒に暮らす、静かで満ち足りた日々。これが私の本当の姿なのだろうか。誰もが羨む生活の中で、空いてしまった心の穴が埋まらない。十年前のあの雨の日に、失ってしまった何よりも大事な人、順正。熱く激しい思いをぶつけあった私と彼は、誰よりも理解しあえたはずだった。けれど今はこの想いすらも届かない。永遠に忘れられない恋を女性の視点から綴る、赤の物語。  
著者
江國香織
出版社
角川文庫/角川書店
定価
本体価格 457円+税
第一刷発行
2001/9/25
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ISBN4−04−348003−2

阿形順正は、私のすべてだった。
あの瞳も、あの声も、ふいに孤独の陰がさすあの笑顔も。
もしもどこかで順正が死んだら、私にはきっとそれがわかると思う。
どんなに遠く離れていても。二度と会うことはなくても。

第一章
人形の足

怖い夢をみた。
怖い声に追いかけられる夢。
声はすこし嗤っている。

声には私の行動などすべてわかっているのだ、と、私にはわかる。
どこへ逃げても声はすぐうしろに迫っていて、頭に息がかかるようた気さえする。
いまにも肩をつかまれそうだ。

私は怖くてふりむけない。
胸をつきやぶりそうた動悸。
いつでもつかまえられるのに、声は私をつかまえない。

目がさめて、しばらくじっと天井をみていた。部屋いっばいに生息している夜の闇。
隣で眠っているマーヴの、規則正しい寝息がきこえる。
いやな夢だ。

目がさめても、体のあちこちになまなましく感触が残っている。
大丈夫。
私は力をぬき、両手で顔を蔽う。

足先をのばし、シーツのつめたい部分に触れてみる。
大丈夫。
ただの夢なのだから。

ベッドからおりて、ビーズ刺繍つきの赤いサテンのチャイニーズシューズに両足をつっこむ。
小さすぎる、と、いつもマーヴにからかわれる足だ。
まるで人形の足だ、と、マーヴは言う。

とても生きた人間の足とは思えない、と。
でも、マーヴは私の足を気に入っているのだ。
赤いチャイニーズシューズもマーヴからの贈り物だ。

チャイニーズシューズは足音がたたないので便利。
私は寝室をでて台所にいき、黒いスティールパイプの椅子に腰掛ける。
台所にいると落ち着くのはどうしてだろう。

すべて収まるべきところに収まり、清潔に磨きあげられた台所。
週に一度、プロがやってきて窓ガラスまで磨いていってくれる。
オーヴンのデジタル時計は午前二時八分を表示している。
静寂。

私は下をむき、自分の足と、床の大理石の模様を眺める。
子供じみた単純さで。
ベッドに戻ると、マーヴが目をさました。
「アオイ?」

どこいってたの、と、ねむたそうな声で訊く。
寝返りをうって、大きな身体をこちらにむける。
「なんでもない」私は言い、マーヴがのばした両腕のなかに入る。

あたたかな場所。
「ごめんなさい。起こしちゃった?のどがかわいたからお水をのんできたの」私はマーヴの胸に鼻をうずめた。
やわらかたパジャマの感触と、体温と肌の匂い。

マーヴはすでにもう寝息をたてていて、私は身動きができない。
たっぶり二分待ってから、マーヴの腕の外にでる。

昼下りのカフェの賑いは、この街で私の苦手なものの一つだ。
そこらじゅうのおしゃべり、トレイに盛られた小さたお菓子、ウェイターのきびきびした動き、煙草のけむり。

「ママがあなたにすごく会いたがってるの」ダニエラが言う。
鳶色の瞳、ゆるくウェーブのかかったおなじ色の髪。

「勿論パパも弟もよ。最近ちっとも顔をみせてくれないんですもの」
「ごめんなさい。アンジェラのことでばたばたしてたから」私は言い、小さなカップのコーヒーを畷る。
マーヴの言う、「泥のように濃くてにがい」コーヒー。
「嘘」

そのコーヒーに一袋すっかり砂糖を入れ、スプーンでかきまぜたがらダニエラは言った。
「アンジェラが来る前からじゃない」
何気ないふうを装ってはいても、傷ついていることのわかる声だ。

私は返事ができない。
ダニエラは大柄で、長い脚をしている。
膝から下はとくに細くてかたちがいい。

豊かな上半身に比して不釣合なほど細い顔の持ち主でもある。
「彼女、いつまでいるの?」
沈黙に耐えかねて、声の調子をきりかえてダニエラが訊いた。

「さあ」私はわずかに笑ってみせる。
アンジェラはマーヴのお姉さんだ。
離婚して、一カ月前からミラノにいる。ちょっとした傷心旅行だよ、とマーヴは言うけれど、いっこうに帰るそぶりはない。

もっとも、一カ月のうち半分以上はローマだのヴェネッィアだのにでかけて留守だったのだけれど。
「マーヴに問いただすべきよ」
ダニエラは言う。

ぽっちゃりした上半身と、品のいいお嬢さんふうの雰囲気のせいで、このひとは実際の年齢よりも若くみえる。
ういういしいといってもいいくらいだ。
率直な人柄も、相手が好感を抱かずにはいられない笑顔も。

「なぜ?」私は首をかしげた。
「なぜ、ですって?」
ダニエラはくるりと目をまわしてみせてから、テーブルに身をのりだす。

金色のネックレスがコーヒーカップに入りそうになる。
「このまま居すわられちゃったらどうするの?それに、これじゃあヴァカンツァの予定もたてられないじゃないの」