おじいさんは山へ金儲けに 〜時として、投資は希望を生む
  刺激的な書き下ろしの寓話11篇と、投資の心得11箇条で学ぶ、投資と人生の教科書 子供の心を失っていない大人と、早く大人になりたい子供達へ  
著者
村上龍
出版社
NHK出版
定価
本体価格 1200円+税
第一刷発行
2001/8/25
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ISBN4−14−080629−X

はじめに

この絵本は、「投資」の概念と、その基本的知識を提供することを目的にしている。
材料として、日本の昔話から代表的な十一編を選び、目的にフィットするようにアレンジを加えた。
日本の代表的な昔話を久しぶりに読み返したわけだが、いくつか気がついたことがあった。

たとえば、登場人物として、山でたきぎを拾って生計を立てるおじいさんが多いというようなことだ。
おそらく昔話が作られた頃、ほとんどの日本人の「自己資源」はごく限られたものだった。
昔話に登場するような庶民にはほとんど教育がなかった。

つまり無知だったので、売るものが非常に限られていたのだ。
日本の昔話の主人公は、正直者の良いおじいさん・おばあさんと、欲張りで悪いおじいさん・おばあさんという風に分かれている。
しかし両者は、無知で貧しいという点で共通している。

たいていの場合、欲張りで悪いおじいさん・おばあさんは物語の中で非常な不利益を被って悲惨な結末を迎え、正直者の良いおじいさん・おばあさんは必ずハッピーエンドとなる。
だが実際には、無知で貧しい人々は、正直だろうが欲張りだろうが、経済的に成功するチャンスなどなかったに違いない。
昔話は、経済的弱者にとっては一種のカタルシスであり、経済的強者・権力にとっては都合のいい教訓となっていた。

どんなに貧乏でも、正直に働いてさえいればいつかは幸福になれるというかすか な希望と、欲張りな人間は一時的に成功してもいつかは不幸に陥るのだというカタルシスをもたらしていた。
しかし現代で重要なのは、正直に生きるか、欲張りになるかではなく、いかにして無知から脱却するかだ。
日本の昔話が、正直者と欲張りという二つの対立するキャラクターで作られているのは、そのことが経済的弱者と権力の双方にとって都合がよかったせいだろう。

どんな時代でも、権力・経済的強者にとっては、正直者か欲張りかの違いなどどうでもよく、単に大衆が無知でありさえすればそれでよかった。
そういった傾向は、実は現代も変わっていない。
日本政府は個人資産を株式や債券市場へ呼び込もうとしているし、低金利時代にあって何とか投資ブームを演出しようとしている。

この絵本は、そういう時代に、だまされないためにはどうしたらいいかを考えるために作られた。
つまり、政府や金融機関の誘惑に乗せられるのではなく、あるいは逆に市場に背を向けてしまうのでもなく、投資という重要な概念を知り、基礎的で本質的な知識を身につけようという目的で作られた。

だまされないための方法は、たった一つしかない。「知る」ことだ。投資について学ぶということは、資産運用・金儲けだけに有用なわけではない。
自分自身の資質や資源、現在と将来の価値の比較、ものごとの優先順位、リスクやコストや利益という重要な概念について考えるときにきわめて有効だ。
近代化・高度成長・欧米へのキャッチアップの過程において、ほとんどの日本人は、所属企業や官庁に庇護されることで利益を確保してきた。

今後の日本がどういう社会になるのか、まだ誰にもわからない。たとえば経済財政諮問会議が示しているのは政策だけで、ヴィジョンはない。
ヴィジョンは理念とは違う。国家的ヴィジョンとは新しい産業構造を明らかにすることであり、個人のヴィジョンとは、どういう仕事で生きていくか自分で決めることだ。
もちろんその両者にも「投資」の概念が関わっている。ただ、ヴィジョンはないにしても、どこかの組織や集団や企業に所属すれば庇護が約束されるというシステムはすでに消滅しつつある。

そういう時代変化にあって、「自分の身は自分で守る」みたいなことがよく言われているが、それもややニュアンスが違う。
自分の「知識」が、自分の財産や資源や資質を守るのだ。投資は、この絵本の第一条にあるように、時として希望を生む。
現在から将来に向けて、自分の利益となり、自分自身の生の充実を支える何かが育っているという意識・感覚、それが希望だ。
ひょっとしたら、投資と希望は同義語なのかも知れないと思うことがある。

村上龍

 

 

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