「自分の木」の下で
 
  なぜ子供は学校に行かねばならないのか? 素朴な疑問に、ノーベル賞作家はやさしく、深く、思い出も込めて答える。子供から大人までにおくる16のメッセージ 心の底にとどまる 感動のエッセイ  
著者
大江健三郎  (画 大江ゆかり)
出版社
朝日新聞社
定価
本体価格 1200円+税
第一刷発行
2001/7/1
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ISBN4−02−257639−1

なぜ子供は学校に行かねばならないのか

1

私はこれまでの人生で、二度そのことを考えました。
大切な問題は、苦しくてもじっと考えてゆくほかありません。
しかもそれをするのはいいことです。

たとえ、問題がすっかり解決しなかったとしても、じっと考える時間を持ったということは、後で思い出すたびに意味があったことがわかります。
私がそれを考えたとき、幸いなことに、二度とも良い答えがやってきました。
それらは、私が自分の人生で手に入れた、数知れない問題の答えのうちでも、いちばん良いものだと思います。

最初に私が、なぜ子供は学校に行かねばならないかと、考えるというより、もっと強い疑いを持ったのは、十歳の秋のことでした。
この年の夏、私の国は、太平洋戦争に負けていました。
日本は、米、英、オランダ、中国などの連合国と戦ったのでした。
核爆弾が、はじめて人間の都市に落とされたのも、この戦争においてのことです。

戦争に負けたことで、日本人の生活には大きい変化がありました。それまで、私たち子供らは、そして大人たちも、国でもっとも強い力を持っている天皇が「神」だと信じるように教えられていました。
ところが、戦後、天皇は人間だということがあきらかにされました。
戦っていた相手の国のなかでも、アメリカは、私たちがもっとも恐れ、もっとも憎んでいた敵でした。

その国がいまでは、私たちが戦争の被害からたちなおってゆくために、いちばん頼りになる国なのです。
私は、このような変化は正しいものだ、と思いました。
「神」が実際の社会を支配しているより、人間がみな同じ権利をもって一緒にやってゆく民主主義がいい、と私にもよくわかりました。

敵だからといって、ほかの国の人間を殺しにゆく殺されてしまうこともある兵隊にならなくてよくなったのが、すばらしい変化だということも、しみじみと感じました。
それでいて私は、戦争が終わって一月たつと、学校に行かなくなっていたのです。
夏のなかばまで、天皇が「神」だといって、その写真に礼拝させ、アメリカ人は人間でない、鬼か、獣だ、といっていた先生たちが、まったく平気で、反対のことをいいはじめたからです。

それも、これまでの考え方、教え方は間違いだった、そのことを反省する、と私たちにいわないで、ごく自然のことのように、天皇は人間だ、アメリカ人は友達だと教えるようになったからです。
進駐軍の兵隊たちが、幾台かのジープに乗って森のなかの谷間の小さな村に入って来た日そこで私は生まれ育ちました、生徒たちは道の両側に立って、手製の星条旗をふり、Hello!と叫んで迎えました。
しかし私は学校を抜け出して、森に入っていました。

高い所から谷間を見おろし、ミニチュアのようなジープが川ぞいの道をやって来、豆粒のような子供たちの顔はわからないけれど、確かにHello!と叫んでいる声が聞こえてくると、私は涙を流していたのでした。

2

翌朝から、私は学校へ向かうと、まっすぐ裏門を通り抜けて森へ入り、夕方までひとりで過ごすことになりました。
私は大きい植物図鑑を持っていました。
森の樹木の正確な名前と性質を、私は図鑑で一本ずつ確かめては、覚えてゆきました。

私の家は、森の管理に関係のある仕事をしていたので、私が森の木の名と性質を覚えることは、将来の生活にためになるはずでした。
森の木の種類はじっに沢山ありました。
さらに、その一本一本が、それぞれの名前と性質を持っていることが、夢中になるほど面白かったのでした。

いまでも私の覚えている樹木のラテン名は、たいていこの時の実地の勉強からきています。
私は、もう学校には行かないつもりでした。
森のなかでひとり、植物図鑑から樹木の名前と性質を勉強すれば、大人になっても生活できるのです。

一方、学校に行っても、私が心から面白いと思う樹木のことに興味を持って、話し相手になってくれる先生も、生徒仲間もいないことはわかっていました。
どうしてその学校に行って、大人になっての生活とは関係のなさそうなことを勉強しなければならないのでしょう?
秋のなかば、強い雨が降る日、それでも私は森に入りました。

雨はさらに激しさを増して降り続き、森のあちらこちらに、これまでなかった流れができて、道は土砂崩れしました。
私は夜になっても谷間へ降りてゆくことができませんでした。
しかも発熱してしまった私は、翌々日、大きいトチの木のホラのなかで倒れているところを、村の消防団の人たちに救い出されたのです。

 

 

 

 

・・・・続きは書店で・・・・