ダンボール ハウス ガール 
 
  映画化!米倉涼子 初主演!・・泥棒に入られた。取られたのは二百万円の入った通帳で、しかもすでに引き出されていた。会社勤め時代に爪に火を灯すようにして貯めたお金だ。なんとか一年間何もしないで暮らしていける、ようやくそう思って仕事を辞めたっていうのに……。最後に財布に入っていたハ万円だけを身につけて、杏の浮浪生活が始まった。金ナシ、家ナシ、男ナシ。すべてを失くし、ダンボール八ウスでの生活を余儀なくされた女の子の、絶体絶命のサバイバル…ストーリー!
 
著者
萱野葵
出版社
角川文庫 / 角川書店
定価
本体価格 362円+税
第一刷発行
2001/9/25
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ISBN4−04−360701−6

1

卵色の月が木々の間から覗いている。
さわさわと葉ずれの音が杏の耳元を優しく撫でていた。
首を持ち上げて月の芯に目を凝らすと、その中に深い空洞がぽっかりと口を開けて、薄い雫を垂らしているように思えた。

董色の雲と夜ふけの柔らかな風:…公園の濃い緑の樹木に取り巻かれて生きてゆける自分を、杏は心から幸せだと感じた。
夜の空気の中で満ちてくる、甘い初夏の花の匂いを胸に吸い込みながら、杏はひんやりとしたベンチに静かに横たわった。
若い方の刑事が部屋の中をじろじろと見回しながら、足元に転がった雑誌を踏み潰して歩くのを、杏は不機嫌に眺めていた。

入ってきた瞬間から、彼らの不躾朕な陽気さは変わらない。
「仕事は?」
「辞めました」

「なんだプータローか……だから泥棒に狙われたんじゃないの?」
まるで加害者扱いだな、と杏はジーンズのポケットにつっこんだ手を握り締め、唇を噛んだ。
「別れた男にやられたとか。いるの、今」

「別に」
「案外狂言だったりして……これ」
若い刑事が杏をからかうように眩いてにやにやした。

「ああ、結構そうだったりして」
杏は腹を立てて返事をする。
「何しろ大学時代はお勉強ばっかりしてて、淋しい孤独な女の子だったし」

刑事の顔がちょっと陰り、杏は微笑を悟られないよう下を向いた。
おまえらは所詮ノンキャリアだろう、こっちをヤンキー上がりの頭の弱いプータローだと思ってるんだろう。
残念ながらあんたとはレベルが違うんだよ、あんたみたいな馬鹿な刑事とは地球が滅びることになっても絶対つきあわないんだよ……お腹の中ではたぎった油が湯気を立てているが、話が長引くのがいやなので杏は黙っていた。

「これから生活どうするの?」
年上の刑事が現実的な質問をする。「多分犯人みつからないと思うし……見つかってもお金は返ってこないと思うからさ」取られたのは二百万円の入った通帳で、しかもすでに引き出されていた。

会社勤め時代に爪に火を灯すようにして貯めたお金だ。
盗まれたことに気付いてからというもの、何も食べられず、代わりに水をガブ飲みしてすごした。
なんとか一年何もしないで暮らしていける、ようやくそう思って仕事を辞めたっていうのに。

両手を床について、這うようにして電話まで動いた。
そして目眩を堪えながら一一〇番した。
青い光が視界をうろうろして、なんにも見えない。

「取り返せないんですか?」
「……無理、だろうな」
年長の刑事が同情した口調を作って答える。

「なんで」
「そんなヤツがお金持ってるはずないもの……残念だけどさ。まあ、しぼらくは実家にでも戻るとかさ。あなたもまだ若いんだから、また働いて取り戻せるよ」
「二百万を、ねえ」
「命取られるよりいいだろ?」

「……」
「襲われるよりいいだろ?」相変わらず無礼な若い刑事が再びからかうように杏を見た。
いや、その二つの選択肢はいい勝負だ、と杏は舌打ちする。
だって二百万だぜ。

「暗証番号が電話番号とか誕生日とかだったんだろ?それでその辺から保険証か郵便物か何か探し出して、引き出されたんだな」
「……」
「返ってこないお金のことなんか考えるよりさあ、誰かに幸せにしてもらいな」
そう言って別れ際、若い刑事が杏の肩をぽんと叩いた。
うるさいなあ、幸せって、つまり金のことだろ?

警察の残していった指紋採取の粉を拭き取りながら、杏は泥色の雫が床に垂れるほどぎゅっと雑巾を握り締めて、悔しさに堪えなければならなかった。
だが、我慢できずに枕を力一杯殴り、それを床に叩きつける。
チクショー、この手で泥棒を串刺しにしてやりてえ。

その男が捕まったと連絡があったのは、それから一ヵ月も経たないある夜のことだ。
付近のアパートばかり三十件も空き巣を重ねていた二十代の妻子持ちの男だった。
運送屋をやっていたが倒産して、空き巣で暮らすようになったという。

怒りが受話器の内側で火膨れのように赤く広がってゆく。
「妻子持ち……妻子持ちなんですか?」
「乳児が一人いてね」

「じゃあ、その妻に言って下さいよ。金返してくれって……どうせ知ってたんだろうし」
「それが、そんなヤッの女だからどうせ共犯だろうと思ってたんですが、知らないって言ってるんですよ」
「でも、その妻と子供は、………今飢え死にしてるわけじゃないですよね」

「ええ、まあ」杏は唇を舐めた。
「じゃあ、子供の、ミルク代を払う代わりに子供を餓死させれば金を返せますよね。返せないほど貧しいと言っても、生活できてるんだから。死にかけてるわけじゃないんだから」
「いや、結構奥さんも苦しんで、ショックを受けていましてね……」相手の言葉は「妻」から「奥さん」に変わっている。

それに気付いた途端、頭の中でマ グネシウムが燃えるような閃光が弾けた。
「それはこっちには関係ない。自殺とかして、自分の保険金で返させればいいでしょ?……運送屋の倒産も知ったこっちゃないです。ちがいますか?」
そう言いながら喉の奥に大きな玉が詰まって、うまく言葉と息が発せられなくなってしまった。

杏は口をもぐもぐさせながら、電話口に向かって、懸命に喋り続けようとした。
通帳の二百万という数字が目の前をちらちらした。
その小さな数字の羅列にのみ、すべての恐怖感と不安を溶け込ませて、ちっぽけな安らぎを見いだしていた自分の、幾つもの夕暮れが蘇ってくる。

十日に一度は記帳に行き、その額を眺めながら、果てしなく続く退屈な日没を、窓の枠に座って幸福にやりすごしていた日々。
一人で小さなテーブルに向かい、ひっそりと食事をしているときも、熱いシャワーで首筋を擦っているときも、そして葺模様の日光の匂いのしみ込んだふわふわする布団の中に滑りこむ瞬間にも、ただ一つ、その通帳のことを気にかけることだけで、心が温かく潤ったんだ。

限りない思い出の詰まった、ブルーとピンクとグレーのカラフルで優しい手触りの通帳……。
それらが再び喉に込み上げて、杏は唾をごくっごくっと飲み込んだが、胸の違和感は消えず、必死で気管の辺りをシャツごしに握り締めた。
何だかすごくキモチワルい。

泥棒の家族が目に浮かんだ。
せめてヤツが身寄りのない浮浪者同然の中年男だったら!
…入生を捨ててたなら許してやれる。

けど、泥棒とその白痴みたいな妻は自分の快楽のために考えもなく子供を作ったんだ。
そして食べられなくなってあっさりウチに入った。
泥棒の、きっと太ったニキビだらけの妻は、三ケタのかけ算もアルファベットの筆記体も覚束ない頭で、それでも結構楽しそうに乳母車を押して近所の公園に行く。

そして仲間の髪の茶色い目の細い女どもと一緒に、子供を砂場で遊ばせている。
夫が泥棒をしようと、妻はいつも被害者で、少し苦しみながらもやはり足りない頭で幸せそうに生きてくんだ。
乳母車を押して、少し恐いお仲間の若い母親に守られて。

この子には罪はないわよねえ、なんて茶色い頭に真っ赤なピンをしたやっばりぶくぶく太った仲間が泥棒の家に遊びにきて、冷蔵庫からコーラを勝手に出しながら言ってるにちがいたい。
妻は少し具合を悪くして布団に入っている。
十代から犯罪に手を染め、なんの代償も払わずに楽しく生き続け、泥棒の魂の腐った薄いDNAが頭の足りない女の腹で膨らみ、ぶよぶよした体だけ大きい低能児が出てきただけなのに。
そして妻と子供は泥棒が持ってきた杏の金で肥え太る。

夫が泥棒だと分かったって自分のたるんだ脂肉と子供のミルクで欄れた肉をナイフでこそぎ取って杏に返そうとする気にもなんないで、ひたすら悲劇の加害者の妻を演じてるんだ……。
奴らの煎餅布団を引きはがして食ってやる。

奴らの粗悪な脂だらけの汚い屑のような肉も、大きな火の上で爽って食ってやる。
そうでもしない限り、奴らの低能さと希薄で単純な感情は、せいぜい泥棒と妻の涙の再会と泥棒の平和な社会復帰を促すだけだろう。
「犯人のデータを教えて下さい」

 

 

 

・・・・続きは書店で・・・・