白い犬とワルツを
 
  あなたには見えますか? 真実の愛の姿を美しく爽やかに描いて、痛いほど胸を揺さぶる大人の童話。 優しさが際立つ感動作!  
著者
テリー・ケイ (兼武 進 /訳)
出版社
新潮文庫 / 新潮社
定価
本体価格 552円+税
第一刷発行
2000/3/1
ISBN4−10−249702−1

 

長年連れ添った妻に先立たれ、自らも病に侵された老人サムは、暖かい子供たちの思いやりに感謝しながらも一人で余生を生き抜こうとする。妻の死後、どこからともなく現れた白い犬と寄り添うようにして。犬は、サム以外の人間の前にはなかなか姿を見せず、声も立てない真実の愛の姿を美しく爽やかに描いて、痛いほどの感動を与える大人の童話。あなたには白い犬が見えますか?

 

 

この作品を、愛をこめて私の兄弟姉妹に捧げる。
ルーラ、ジーン、セアラ、ネル、ベティー、トゥームズ、パッツィー、ペギー、ジョン、ゲーリーたちには、白い犬の踊るのが見えたのだった。
また、今は亡きわれらの兄弟トーマスの思い出にも捧げたい。
トーマスは、私の想像のなかに鮮やかに存在する不可思議な伝説の世界に、いつも英雄として登場してくれた。


 

 

1


お前たちの胸のうちまで、俺には手に取るようにわかっている。
俺がもう年で、今後のことが心配だから、みんなで相談しようというわけだ。
俺に聞こえないようにと思って声をひそめていても、ちゃんとわかるのだ。

なにかいい方法を考えよう、みんなが集まってるうちに。
どうも心配だ。
こんなときにいうのもなんだが、なんとか親父に話せないかな。

そうよ。
はっきりいうのはつらいけど、いつまでも相談しないってわけにはいかないでしよう。
そうかしら。

なにも今いわなくたって。
もう少し先で、せめてあと二、三日たってから。
とにかく、ひとりじゃやってけない。

無理だよ、脚だって悪いんだ。
ひとり暮らしに馴れてないしな。
そうよ。

いつもだれかがそばについてたんだもの。
ここから帰るときだって、わたしたち、ひとりずつ帰るようにしてたぐらいで。
みんな帰っちゃっても、お母さんだけはいたからな。

そう。
でもそのお母さんがいなくなったんだから、これまでみたいにはいかないわ。
なんとかしなきゃ。

どうしましょう。
でも今は切りだせないわよ。
しかし、いつまで黙ってるわけにもいがんだろう。

そう簡単に首を縦には振らないぞ、どんな話を持って行っても。気位が高い。
親父の性分だよ。
自分じゃ今でも牛みたいに頑健なつもりだ、ちょっとかわいそうだな。

鼻っ柱は強いんだけど。
俺には話の中味までは聞こえていないつもりだろうが、ちゃんとわかっているさ、いくらひそひそ声でしゃべっていても。
年寄りは頭がおかしくなって、幻に取りつかれてしまい、なにがなんだかわけがわからなくなってしまう、親父にそんなふうになられるのはつらい、そう思ってるんだろう。
もう夜も十二時をまわった。

明るいうちに駆けつけた子もいれば、暗くなってから着いた者もいた。
息子や娘たちは俺の肩を抱いて涙を浮かべた。
俺に挨拶がすむと、みんな台所の大きいテーブルのまわりに集まって、濃いコーヒーを飲みながら、ずっと声をひそめてしゃべっている。

悲しそうな、心配そうな声だ。
まさかと思うだろうが、俺にはお前たちの胸のうちが手にとるようにわかるのだ。
俺がもう年だから、これからのことが心配なんだ。

ロールトップ式のライティング・ビューローのわきに寄せた柔らかい揺り椅子に体を預けて、彼は今、自分の部屋にひとり、坐っている。
アルミニウムの歩行器の半円の輪にいいほうの右脚を伸ばしてのせ、高い椅子の背に頭をもたせて、目をつぶっている。
眠っているのではない。

眠っているふりをしているだけだ。
このほうがいい。
息子たちにも娘たちにもしゃべらせておこう。

しゃべっているうちに気がすんで、俺のことばかり話さなくなるだろう。
俺はべつに病人じゃないんだぞ。
病人の付き添いなら俺にも経験がある。

あれは十七のときだった。
マディソンの学校から家に呼びもどされた俺は、祖父が衰弱して死んでいくのを看取った。
気は進まなかったが、付き添えといわれたら、まさか嫌とはいえない。

それで祖父に付き添って、最後までこの目で見届けたのだ。
しかし俺は勘弁してくれ、子供たちに看取られながら死ぬなんてまっぴらだ。
お前たちの気持はありがたい。それにお前たちも黙ってばかりはいられないし、自分が役に立つと思いたいだろう。

しかし言い争いにはなるまい。そんなことをしている場合でも気分でもないはずだ。
今は大丈夫だ、が、先で、俺のことをかわいそうと思わなくなるころが危ない。
たぶん衝突する。お前たちは気性も激しいし、気位も高い。

いいたいこともいわずに引き下がるようなたちじゃない。
もう五十年以上も聞いてきたが、黙って引っ込む奴などひとりもいなかった。
しかし今は、心から俺のことを考えてくれているな。台所でテーブルを囲んで濃いコーヒーを飲みながら、俺のことを心配してくれている。

ライティング・ビューローのわきの窓が開いている。
五月の夜だ。
新緑の香りが窓いっぱいに流れこんで来る。沼のほうで虫が鳴きたてている。

台所では息子や娘たちがひそひそ声で相談をつづけている。
おお、あれは夜鷹だ。
ひときわ生きのいい、鋭い鳴き声だ。

納屋を下がったあたりにいるな。
すこし口を開け、唇をなめ、深く息を吸って、夜鷹に答えるふりをしてみる。
夜鷹や鶉と俺がさえずりかわすと、あれは喜んだ。

春から夏にかけて、夕方になると、ふたりでよく横手のポーチに坐って鳥の声に耳を澄ました。
俺が鳥たちと鳴きかわす。
一日、外で働いた男が家に帰ってきて、無邪気に鳥たちと遊ぶ姿が、あれは好きだった。

口笛を吹くと、鶉がぴょこぴょこ芝生まで姿を見せる。
「ほら、来ましたよ」とあれがささやく。
うちのとうもろこし畑に住みついてるんですからね、だれにも殺させませんよ。

鶉は気がよくて、人なつっこいの。
猟銃で狙ったりしちやかわいそうですよ。

鳥たちが姿を見せるのを待つようになったのも、もとはといえば、あれを喜ばせるためだった。
黄色い翼を日の光に輝かせて矢のように宙を切る鵬、もったいぶって身、つくろいをするレッドバードやブルーバード、赤い縁取りの肩章のような翼をつけたブラックバード。

 

解説

兼武進

これはアメリカの小説Terry kay、To Dance with the White Dog(Washington Square Press、1990)の翻訳である。
妻をなくした八十一歳の老人が不思議な「白い犬」を相手に余生を生き抜き、ついにみずからも癌に倒れるまでの心意気を描いて、意外にも、さわやかな小説である。
主人公のサムは何十年も苗木を育てるのを仕事にしてきた。
その道では知られた人物なのだが、本人は世間的な名声にはいっこうに無頓着、妻と大勢の子供に囲まれ、ひたすら大地から木の命を育てることに生き甲斐を感じてきた。
誠実な生涯であったからこそ、妻の死後も迷うことなく自分の生き方を貫くことができたのだ。
なんといってもこの潔さが、この主人公の、そしてこの中篇小説の、魅力であろう。
大地を踏みしめ、頑固で、大らかで、包容力があり、妻の面影を心の支えにして孤独に耐え、最後は従容として死を受け容れる。
これはまさに古風で懐かしい「家長」の姿だ。
サムという名前からして、典型的アメリカ人「アンクル・サム」に通じていて、そこに作者の願いがこめられているのではないかと思われるのである。
不思議な「白い犬」が小説のなかで、あるときは跳びまわり、あるときは主人公のかたわらにうずくまる。
五〇年以上もつづいた結婚生活の化身ともいうべきこの「白い犬」が神出鬼没、現実と夢幻のあわいを跳梁するさまは、この作者ならではの芸の見せどころである。
が、それだけではない。
主人公が子供たちに尋ねたように、作者は読者に、「あなたにはこの『白い犬』が見えますか。見えるような生涯を送ってきましたか」と問いかけているのだ。
そういう意味で、これは大人のためのメルヘンといってよいかもしれない。
若い人にもぜひ読んでもらいたい、善意と誠実に満ちた、大人のメルヘンである。
この作品はベストセラーとなったR・J・ウォラー『マディソン郡の橋』などとともに一九九二年度ABBY賞(アメリカ書籍販売業者連盟の年間推薦図書)候補となり、翌年もまた候補に挙げられた。
一九九三年にはテレビ・ドラマ化されて放映され、全米ネットワークの秋のシーズン最高の視聴率を取った。
わが国でも一九九五年にNHKで放映され、昨九七年にも再放送されていた。
サム老人の気概がアメリカでも日本でも人の心をうつのであろう。
作者テリー・ケイの略歴については、同じ新潮文庫『キャッツキルの夏の恋』に書いておいたので、関心をお持ちの方はそちらをご覧いただきたい。
一九九五年に初めて単行本として出版されたときに編集を担当してくださった新潮社出版部の渋谷遼一氏、このたび文庫に収めるにあたってお世話くださった三室洋子さんに心よりお礼を申し上げる。

(一九九八年一月)

テリー・ケイ

Terry Kay

1938年、米国ジョージア州生れ。ウエスト・ジョージア大学からラグランジュ大学卒。地元の雑誌に映画や演劇の批評を寄稿したりしたあと、処女作『明りがついた年』を発表し、本書で全米に知られる作家となった。イーモリ大学で創作の指導も行う。現在アトランタに愛妻と住んでいる