愛の領分
 
  直木賞受賞作 不倫でもないのに秘密の匂いがする愛を信じられない男と女。ゆきつく果ては・・・。待望の恋愛長篇。   
著者
藤田宜永
出版社
文芸春秋
定価
本体価格 1714円+税
第一刷発行
2001/5/30
ISBN4−16−320060−6

吹き降りが屋根を激しく叩きさ中空をくぐもった陰気な音が走っている。
暮れかけた空が、一瞬、黄金色に割れた。
春雷である。

淳蔵は稲光につと目を上げた。
裏の家の塀から張り出したサンシュユの枝が揺れ、小さな庭に、黄色い花びらを散らせていた。
淳蔵は肩入れの真っ最中だった。

背から肩へ、襟から肩へと生地のくせを取ってゆく。
淳蔵が使っているのは、若い頃から慣れ親しんできたガスアイロンである。
木製の取っ手を握るだけで温度が分かるほど使い込んできた道具だが、都市ガスのカロリーが上がってからは、温度が急激に上がりすギさ始末に悪い面も出てきた。

昔は火が細い分だけ、ゆっくりと暖まり、温度が安定していたので、実に使い勝手がよかった。
今は時々、手を休めて温 度が下がるのを待っていなければならないこともある。
伸ばしたい生地の部分に水をかけ、こて衣の上からアイロンをぎゅっと当てる。

上着にとって肩のラインは命である。
表の扉が開け閉めされる音がした。
風が仕事場を騒がせ、板張りの床に足音が響いた。

だが、生地を陳列した棚が視界を塞いでいて、淳蔵には誰が来たのか分からなかった。
「どうぞ」淳蔵は声をかけた。
肩入れは最終段階を迎えていた。

途中で作業を止めたくなかった。
生地に目を落としたままでいた。
足音が一瞬止んだ。

不可解な間に、淳蔵は顔を上げた。
罐割れの目立つ漆喰壁に人影がぼんやりと映っていた。
その影がゆっくりと動き出すと、痩せた背の高い男が、棚の角から顔を出した。

鼻からずり落ちそうになっていた老眼鏡を外し、淳蔵は高瀬昌平の顔を食い入るように見つめた。
挨拶の言葉すら出てこなかった。
雨に叩かれ濡れそぼっているツイードの上着はそう悪いものではなさそうだが、かなり着古されている感じがした。

つい相手の着ているものの品定めをしてしまうのは、仕立屋の癖である。
混乱を引きずったまま、淳蔵は昌平から目を逸らした。壁に張られた鏡に昌平の姿が映し出されている。若い頃から、こんなに猫背だったろうか。あの頃は、古着のような洋服など絶対に着ない男だ
ったことだけは確かである。

淳蔵は意を決したかのように昌平に顔を向けた。
そして、呼びかけともつぶやきとも取れない暖昧な調子で言った。
「高瀬さん」

「元気にやっているようだな」
昌平はぎごちなく微笑んだ。
言葉が続かない。

淳蔵は生地に水をかけた。
アイロンを握った手に思わぬ力が入った。
「もう少し待っていてくれませんか。すぐにすみますから」

「俺にかまうことはない。仕事を続けてくれ」
昌平は昔と変わらない鷹揚な態度でソファーに腰を下ろした。
淳蔵は肩入れの作業に戻った。

高瀬昌平との再会を喜んでいないわけではなかった。
懐かしさが静かに胸を満たしていった。
しかし、苦い思い出の残津が、喜びの隙間を埋め尽くしている。

同窓会で旧知と再会したようなおおらかな態度で、昌平を迎え入れることはできない。
高瀬は脚を組み、生地見本をゆっくりとめくり始めた。
床屋で順番待ちをしている客が暇つぶしに雑誌でも見ているかのような姿である。

すこぶる自然な立ち居振る舞いだが、それがかえって、淳蔵には奇異に感じられた。
淳蔵は黙って仕事を続けた。
風雨はさらに激しくなり、米粒でもばらまくような音が屋根に響いていた。

「お待たせしました」
淳蔵はガスアイロンのスイッチを切った。
高瀬は生地見本から目を離した。淳蔵は窓辺に寄った。
散ったサンシュユの花びらが、蝶の死骸のように見えた。

 

 

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