日本の戦争 なぜ、戦いに踏み切ったか ?
 
  明治維新で国家を建設しやがて、あえて『負ける戦争』に突入していった 日本近代の『謎』を解く鍵はここにある。  
著者
田原総一郎
出版社
小学館
定価
本体価格 1800円+税
第一刷発行
2000/11/20
ISBN4−09−389241−5

まえがき

わたしの心の中に、いつか明らかにしたいと願っていた大きな疑問があった。何と五五年間も疑問のまま抱えていた。
なぜ、日本は負ける戦争をしたのか。

わたしが、小学校、当時は国民学校五年のとき、あの戦争は終わった。そのときから疑問のままであった。
やっと、五〇年目を過ぎる頃から、これに真向かってみようという気持ちになった。

いま、答えを見つけたい、と切実に思うようになった。わたしの年齢かもしれない。時代の潮の流れが気になるのかもしれない。この五年間、いままであまりお目にかからないような分野のかたがたにたくさんの教えを乞い、いままでになかったほど歴史の勉強が出来た。

おのれの無知とたたかいながらの楽しい作業ではあったが、一番困ったことは、公刊された書物は、当然ながら各々の時代の産物であり、戦前はともかくも、戦後の五五年間の間に出版されたものは参考にならないもののほうが、俄然多かった。ということも、また面白かった。

それで、なぜ、あれほど無残な戦争を始めたのか、ということである。
わたしが国民学校に入学したのは、一九四一年(昭和二八)、太平洋戦争(当時は大東亜戦争と称した)が勃発した年だった。

二年生の春までは、日本軍がアジアにある英、仏、蘭、そして米国の植民地を次々に解放したという威勢のよいニュースを聞かされていた。二年生の六月にミッドウェーの海戦で日本は惨敗するのだが、この事実は国民には知らされなかった。

しかし、二年生の三学期になるとガダルカナル島からの撤兵、そして三年生になるとアッツ島の玉砕(全滅ということ)、キスカ島を放棄などと日本軍の敗色が色濃くなり、わたしたちが知らされるのは、日本軍玉砕のニュースばかりとなった。

そして、東京、大阪、名古屋をはじめ大都市のほとんどはアメリカ軍のB−29の空襲で焼け野
原となり、広島、長崎への原爆投下で二一万人が殺されて敗戦となった。沖縄でも民間人一〇〜一五万人、軍人六・五万人が殺された。

一九四五年(昭和二〇)八月一五日。天皇の玉音放送を聞いてわたしは泣いた。海軍兵学校に行きたいと考えていたので、前途が閉ざされたことを悲しんだのだ。しかし、本音をいえば、日本の敗戦はわたしにとっては”解放”であった。

わたしの脳裏に刻み込まれていたのは、日本敗退のプロセスばかりで、最期は日本人の全てが玉砕する、つまり死ぬのだと思い込んでいたからである。
それにしても、なぜこれほどムチャクチャに叩きのめされ、子供までが日本人全員玉砕を覚悟しなければならない戦争を日本は始めてしまったのか。

なぜ、米、英、蘭、ソ連、中国と、世界を敵にまわすようなことになってしまったのか。
これが、敗戦直後に、わたしが抱いた疑問だったのである。

だが、疑問を解くチャンスはなかなか訪れなかった。
敗戦後の小学校五、六年でも、中学でも、高校でも、明治以後の日本の近代史、とくに日清戦争、日露戦争を含めて、開戦へのいきさつ、戦争のありようについては、一切触れなかった。学校の授業で、それに触れるのはタブーのように、というよりタブーそのものとなっていたのである。

大学でも、日本の近代戦争に取り組む講座は皆無だった。教授や先輩たちに、とくに昭和の戦争について問うと、”なぜ負ける戦争を始めたのか”などというのは愚問で、日本は国際ルールに違反する侵略戦争に突っ走り、世界は当然そんな暴挙など許すはずはなく、負けるべくして負けたのだと誉めるように説明された。
侵略とは、もちろん許されるべきことではない。だが、たとえ悪いことにせよ、やる限りは当時の日本人だって成功することを考えたに違いない。

だが、太平洋戦争に突入するときに、すでに日米の国力(鉄の生産量)は、一対一〇で、どんな奇跡が起きようと、日本が勝つ可能性などなかった。フィリピンで戦死した従兄が勝つわけないと縁先でつぶやいたのを不思議な気分で聞いたことがあった。
失敗するに決まっている侵略を、承知で突っ走るほど当時の首脳陣はバカだったのか。

なぜか、に答えてくれる教授も先輩もいなかった。侵略戦争の動機や意味を詮索するのは、保守反動だと叱られた。
保守、反動だという言葉で黙らせられる時代だった。はっきりいってしまえば、日本の近代戦争史は、『侵略』それは『悪』というレッテルで封印されて、戦後長い時間、それを詮索、いや考察することが出来なかった。

誰がそれをタブーにしたか。それはそれで実に戦後の時代を考える上で重いテーマだが、次の機会にするとして、はじめに戻る。
なぜ、戦争を始めたのか。なぜ、負けたのか。なぜ、日本は、明治の時代から西欧を懸命に追いかけてきて、その果てになぜ『悪』の国家として世界から糾弾されるようになったのか。
疑問はいくらでもあった。

侵略国日本を懲らしめた、米、英、蘭、それに仏も、いずれも植民地を持っていた。ソ連でも、一〇〇〇万人以上の虐殺が行なわれて、嫌がる国が無理やりにソ連邦に組み込まれていた。
植民地を作るとは、つまり侵略ということにはならないのか。が、かの国々はまるで正義の国のように遇されている。
少なくとも、どの国も一九四五年の日本の敗戦までは植民地を所有しつづけていた。

一体近代日本は、何に成功し、何を、どの地点で失敗したのか。
それとも近代日本は明治維新の最初から誤れる暴走をつづけて来たということなのか。
それにしても、五五年は長すぎる。わたしは、何度か、そのことを取材しようと試みたが、取材に応じてくれる学者を見つけることが出来なくて萎えてしまっていたのだ。

そして、気がっくと、日本の昭和の戦争を肯定し、積極的に評価する論文がどんどん出るようになって来た。
あの戦争が”失敗”だったと実感しているわたしは少なからず困惑した。
そこで、少年の頃から五五年間抱えつづけて来た疑問の解明に取り組むことにしたのである。

 

第一章

富国強兵 「強兵」はいつから「富国」に優先されたのか

「日本」をデザインしたのは島津斉彬
「廿五日の曙の空ほのぼのと明け初めて午前七時ともなる頃、両議院の門前は早や人の山をなせり、予ての手筈にや警吏は院の内外より、一方は練兵場に、一方は新し橋を渡りて久保町通りの四辻まで五十米を隔てて警備し、なお往来の雑踏を制せんとてか往還の道路を左右にわけて通行せしめぬ。

総ての体嬉々たる裏に、厳粛々たる様ありて、あはれ第一期帝国議会召集の景況よと見受けられたり」(東京日日新聞)第一回帝国議会が召集されたのが明治二三年(一八九〇)一一月二五日で、当日は東京は雲が垂れ込めて、雨が心配されたが、結局雨は降らなかった。

なお、その五日前には帝国ホテルの開業式が行なわれ、三十日後の一二月一六日には、東京、横浜の両市内と、両市間での電話交換が始まっている。
帝国議会の議員(衆議院三〇〇人)は、選挙で選ばれたのだが、有権者は税金一五円以上を納める二五歳以上の男子で、全国民の一・一四パーセントに過ぎなかった。
総理大臣は山県有朋で、現在とは違い、選挙の結果には関係なく天皇に指名され、次いで閣僚を総理大臣が選ぶというシステムだった。

この議会で、総理大臣の山県有朋は、注目すべき演説を行なった。衆院で、第一党の自由党や第二党の改進党が、政府に強く「政費節減」を迫ったのに対して、山県は「政費節減」は、「国是に反する」と、いい切って、退けたのである。

国会創設時に早々と経費削減が出てくるのも興味深いが、さらにすでに国是という言葉をかざして反論するのもおもしろい。
この山県の反駁は、速記録(官報第二千二百八十七号付録。明治二四年二月一七日)を調べると、約三一〇〇文字なのだが、何とぞの中で、「国是」という言葉を一五回もくり返している。
それでは「国是」とは一体どういうことなのか。
山県自身の、反駁演説の文言を辿ると、「列強の間に立って国権を完全に伸張するには国富の兵強からざるものはなし」、つまり国を発展させるには「富国強兵」だということになる。前東大教授の坂野潤治(現千葉大学教授)も、山県は「富国強兵という維新以来の国是を説き、軍備拡張と産業育成の必要を訴え、議会の歳出削減に応じられない旨を述べた」のだ(『明治憲法体制の確立』)と、指摘している。

「富国強兵」……。「国家を富まし、兵力を強めること」(『広辞苑』)。
実は、山県の「国是」の強調は、「富国」よりも「強兵」に力点を置いていて、維新以来の路線の転換を示していたのだが、そのことは後に記す。

それにしても、明治維新以来、日本が一九四五年八月に第二次大戦で敗れるまで、ずっと日本の「国是」であった「富国強兵」は、一体いつ、誰がいい出したのだろうか。
本郷の東大の研究室に坂野潤治を訪ねた。

 

 

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