天の瞳 成長期U
 
  あなたは、もうあの倫太郎に会いましたか。子供は誰でも、神様から何かをもらっている・・・・。  
著者
灰谷健次郎
出版社
角川書店
定価
本体価格 1500円+税
第一刷発行
2001−/2/28
ISBN4−04−873286−2

 

あんちゃんが倒れた。

どうやら本屋の経営で並々ならぬストレスを抱いていたらしい。

代わって倫太郎たちが学校廻りの営業を引き受ける次第に……。

度重なる少年達の暴力沙汰になんら具体的な対応を打ち出せないでいる中学校に対して、親、生徒達の不満は高まっていく。

倫太郎、青ポン、ミツル、タケやんにルイが加わり、自分たちには何ができるかを模索し始める。

感動のライフワークシリーズ第六弾、中学校の現場を鋭く問う。

 

倫太郎のところへ峰倉肖さんから電話が入った。あんちゃんが入院しているという。「えっ。どういうことォ?」倫太郎は思わず大きな声を出した。確かにあんちゃんは、ここ四、五日、子どもの本専門店「いえでぼうや」にも、道場にも姿を見せていなかった。本の仕入れのことで、東京の出版社回りをしていると倫太郎たちはきかされていたのである。それで峰倉さんに、そういった。

「園子さんとあんちゃんは相談をして、そんなふうに口裏を合わせていたらしいんだけど……」

「けど……って、どういう意味?」

「あんちゃんって、これまで病気一つしたことのない健康な人でしょう」

「病気どころか、殺しても死ねへんワ、あのあんちゃんは」峰倉さんは電話の向こうで、クスクスと笑った。

「はじめ、ただの食あたりくらいに思っていて、二、三日の入院ですむのなら、みんなにしんぱいさせてもいけないと気配りしたみたいよ」

「あほか」と倫太郎はつぶやいた。

「園子さんが周りの人に気を遣うのは、あなたたちもよく知っていることでしょうけど、あんちゃんもやっぱりそんなところがあるのよ。磊落そうに見えて気持は繊細なところのある人なの」峰倉さんはいった。倫太郎は急にしんぱいになった。

「なにか病気?どんな症状?」急きこんでたずねた。

「嘔吐して、それから倒れたんだって」倫太郎の動悸,が早くなる。

「それは一体なに?医者はどういつでるの?」

「それがねえ……」峰倉さんは口ごもっている。倫太郎は、いっそうしんぱいになった。

「いろいろ検査をしたらしいのだけど、原因がよくわからないんだって」倫太郎は半分、ほっとする。「お医者さまは過労からくるものかもしれないとおっしゃるのね」「……………」倫太郎には理解できない。あんちゃんの肉体は鍛えぬかれたものである。確かに仕事はきついかもしれないが、それで病気を呼びこむぼどヤワなあんちゃんとはどうしても思えないのである。

峰倉さんは、そんな倫太郎の気持を察したかのようにいった。

「人一倍丈夫なあんちゃんなのに、まさかと思ってるんでしょう、倫太郎ちゃんは」

「うん」

「人は、心と体でできているわね。心と体はばらばらにあるもの?」

「いや」

「園子さんがよく心と体の対話ということをおっしゃるわね」

「あんちゃんもランニングのときに、それをよくいうよ」

「ああそうなの」どうしてか峰倉さんは、よしょしと声を出してうなずいた。

「倫太郎ちゃんは自律神経とか自律神経失調症という言葉、知ってる?」

「うん。知ってるよ。あんちゃんがそうだというの?」

「ううん。そうじやないけど、その近くに原因があるというのが、お医者さまの診立てらしいわ。自律神経のアンバランスという言葉を使っていらっしゃった。自律神経というのは意志とは無関係に動く内臓器官を支配している神経系ね。心臓や胃、腸の他、汗や唾液などの分泌腺の活動を調整しているのだけど、自律神経そのものは交感神経と副交感神経が互いに拮抗して作用してるのね。ちょっとむずかしいかナ。だから、その二つの神経の緊張度が平衡を失うと、いろいろ体に異常が出るというわけ」ぱじめに峰倉さんが、心と体の話を持ち出した意味が、倫太郎になんとなくわかるのである。

いくら体が頑健でも、体のデリケ−トな部分は、それで補いをつけるというわけにばいかないものらしい。

「あんちゃんの場合、体の異常がどう出たというの?」

「食べものを戻したでしょう。下痢もしてるようよ。他に、めまい、肩こり、食欲不振−−−」倫太郎は、えっといった。

「あのくいしんぼうさんが、と倫太郎ちゃんぱいいたいんでしょ」と峰倉さんに先を越された。

「まいったな、もう」と倫太郎ぱ自分のことのようにいった。

「おさしみのような生物ぱ特にダメみたい。びっくりするでしょう。ガンの患者さんにそういう傾向があるっていうじゃない。あんちゃんの場合、ガンのしんぱいはないんだけど……」やれやれと倫太郎は思った。

「他にも、いろいろ不調感があるって、園子さんがいってらっしゃった」

「あんちゃんは正直に、それをいわへんやろ」倫太郎はいった。

「倫太郎ちゃん、お見通しね。そうなの。なにかのひょうしに、やたら汗が出たり、お風呂に長くつかっていることができないとか、あきらかに変調があるって園子さんばいうのね」

「働き過ぎて体のどこかが悪くなったというんじゃなくて、自律神経がバランスを崩しているので変調が起こるっていうこと?」

「そうそう」

「医者は過労かもしれないっていってんだろ。それとどういう関係があるのかな」「自律神経の異常はつよいストレスがひきがねになることが多いんだって」

「あんちゃんにストレス?」ぴんとこない倫太郎である。

「いい言葉があるわ」と峰倉さんはいった。

「過労という言葉を使うから、働き過ぎて疲れるというイメージになっちゃうけど、過労の中には心労というのもあるでしょう。あれこれ心づかいして疲れるということがあるし、しんぱい事が多いとやっぱり疲れるじゃない?」

「そうかあ……。でも、あんちゃんにそれほどしんぱい事があるかナ」「そりゃあるわよ。子どもの本を売る本屋さんの経営が苦しいことば倫太郎ちゃんもよく知ってるでしょ。毎月の支払いをどうしょうかという心労もあるし、どうずれば一冊でも多く本が売れるかとあれこれ考えるのもしんどいものよ」「うん」「それに、あんちゃんは頼まれると、あちこち子どもの本の話をしに出かけていくでしょ」それば倫太郎も承知していた。

「啓蒙という社会的役割もあるでしょうけど、やっぱり一冊でも多く本を買ってもらおうという気持があるから無理して出かけていくのね。月に十回以上も話にいってるそうよ。それってストレスにならない?」「そういうたら、あんちゃんはオレにグチをこぼしたことがあったよ」

「どんなことをいったの?」「人の前で話をするのは疲れる。何度やっても慣れるということがない。そんなことをいうとった」「ああやっぱりねえ」「もともとあんちゃんは人前で話をするのは苦手の方やろ」「そうね」「嫌なことをやるのはストレスになるもんね」「そうねえ。それを月に十回以上やるなんて無茶よ」「うんうん」「それで倫太郎ちゃんに電話をしたのは……」峰倉さんの声が少しつよくなった。

「……あなたにあんちゃんを説得してほしいの。少し仕事から離れて休息するようにいってほしいの」「園子さんや峰倉さんがいってもきかない?」「全然ダメ。検査して異常がないんだったら病院を出るって」あのクソ馬鹿あんちゃん、と倫太郎はいった。「体を元へ戻すには休むことしかないって、お医者さまはおっしゃるし……」「薬は?」「一般には気持を楽にさせればいいのだから、精神安定剤を使ってみて、ようすをみることばあるそうだけど」

「それで治るわけじゃない?」「そういうことなんでしょうね」「あんちゃんは一体、どういう気持や」「園子さんとわたしがつよくいうと、しまいにあんちゃんは怒り出すのよね。店を休んだら店がつぶれる。どうしてくれるんじゃ、とこわい顔して」そのようすを倫太郎は想像することがかできた。今、「いえでぼうや」は、あんちゃんを入れて四人働いている。中年女性のジノさん、倫太郎たちがユリベエと呼んでいる二十三歳の百合子さん、高校生で登校拒否中のドンピピこと堂島雛子ちゃんらだ。それぞれ仕事の分担がほぼ決っている。

あんちゃんは総括と外回り、ジノさんは喫茶部をとりしきっている。百合子さんとヒナ子ちゃんは、おおかた店にいるが、店番と、やってくる子どもたちの応対や相談、ときには小さな子どもの遊び相手と、きわめて忙しい。つまり、みな、手一杯なのだ。あんちゃんが、休息を勧める園子さんや峰倉さんに、休むと店がつぶれると食ってかかる気持もわからなくはない。しかし、あんちゃんが本格的に病気になってしまっては、元も子もない。「う一ん」と倫太郎は捻った。「明日、土曜日でしょう。あんちゃんは日曜日までは病院にいるけれど、いってるの。

それで、倫太郎ちゃん、明日が明後日、病院にいってくれない?」

「うん。わかった」と倫太郎はいった。月曜日には退院すると倫太郎は考えて、ミツル、青ポン、タケやんにだけ声をかけ、共にいくことにした。

少林寺拳法を教えているあんちゃんには、なにかあれば、その身を案じる少年たちは他にたくさんいる。あんちゃんは自分の病気を、倫太郎にも隠したくらいだから、あんちゃんの気持を慮ると、誰彼なしに声をがけるわけにいがない。気心の知れている三人なら、あんちゃんの気持がどうであれ、その結果がどうであれ、なんとかなると倫太郎は踏んだのだった。さっそく土曜日に、それを実行した。病院にいく道々、倫太郎はきのうの峰倉肖さんとの電話のやりとりを、できるだけ詳細に、三人に伝えた。

「ほな、ま、死ぬことはないわけや」タケやんは乱暴、且つ、ええかげんだった。「死ぬがア」倫太郎は白い目で、タケやんを見ていった。「あんちゃんでもなア………」感慨を持って、ミツルはつぶやく。「人間は誰でもデリケ−トというわけや」青ポンはいった。三人三様だ。「そや。青ポンのいう通りや。人間見るとき、あいつはこうや、こいつばこうやと決めつけたらあかんというこつちゃ。あんちゃんがて、他人に見せてない部分.があるがもわがらん。

峰倉さんと話をしていて、あんちゃんを勝手にこうやと思うていたオレは、結局、あんちゃんに甘えとったんやなあと思うた」ふん、ふんとミツルはうなずいた。「自分でもわがらん自分というのもある」と青ポン。「青ポン、おまえ、ええこというなア。案外あんちゃんは、そうがもしれんぜ」とミツルはいった。「えっ。……ということは、どういうこつちゃ」青ポンはきき返した。「あんちゃん自身、自分の体の調子がおかしくなるやなんて思うてながったんと違うか」ふん、ふんと、こんどは倫太郎,がうなずいた。

「やっぱり人間、デリケートやなあ」

 

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