HANNIBAL ハンニバル 上
 
  映画 「ハンニバル」 欧米沸騰 2001年4月 日本上陸 !全国松竹 ・ 東急系にて 超拡大ロードショー  
著者
トマス・ハリス
出版社
新潮文庫
定価
本体価格 705円+税
第一刷発行
2000/4/10
ISBN4−10−216703−X
あの血みどろの逃亡劇から7年。
FB1特別捜査官となったクラリス
は、麻薬組織との銃撃戦をめぐって
司法省やマスコミから糾弾され、窮
地に立たされる。そこに届いた藤色
の封筒。しなやかな手書きの文字は、
追伸にこう記していた。「いまも羊
たちの悲鳴が聞こえるかどうか、そ
れを教えたまえ」……。だが、欧州
で安穏な生活を送るこの差出人には、
仮借なき復讐の策謀が迫っていた。

第一部 ワシントン DC

 

こういう日は震えながら
幕をあけるものだ……
クラリス.スターリングのマスタングは、轟音と共にマサチューセッツ・アヴェニューに面したATF(アルコール・タバコ・火器取締局)本部への進入路を駆けあがった。

そこは経費節減のために、文鮮明師から賃借りしている建物だった。
急襲班はすでに三台の車に分乗して待機していた。先頭は、隠密捜査用のくたびれたヴァン。その背後に、SWATチームの黒塗りのヴァンが二台。いずれも隊員が乗り込みずみで、エンジンをかけたまま洞穴のような駐車場に止まっている。装備袋を抱えあげてマスタングから降ろすと同時に、クラリスは先頭車両の薄汚れた白いヴァンに駆け寄った。”マーセル蟹料理ハウス”の広告プレートが、そのヴァンのボデイ両側面にはとりつけてある。

ひらいた後部ドアの隙間から四人の男が、近づいてくるクラリスを見守っていた。緊急作戦用の出動服姿でも、彼女はほっそりしていて、装備袋の重量に負けずに足早に歩いてくる。駐車場の陰気な蛍光灯の光の下で、髪がつやつやと輝いていた。

「これだからな、女ってやつは。きまって遅刻するんだよ」ワシントン市警の警官が言った。
この急襲の指揮をとっているのは、ATFの特別捜査官、ジョン・ブリガムだった。

「いや、遅刻したわけじゃないおれが彼女に連絡したのは、タレコミが入ったあとだったんだから」ブリガムは言った。
「彼女、わざわざクワンティコから駆けつけてくれたんだろう−やあ、スターリング、その袋、受けとろう」

クラリスは彼と掌を打ち合わせて挨拶した。

「しばらくね、ジョン」

運転役のむさくるしい捜査官に、ブリガムが合図する。ヴァンは後部ドアが閉まらないうちにスタートして、爽やかな秋の午後の中にすべりでた。
クラリスは、この種の監視用のヴァンには乗り慣れている。監視用ペリスコープの下をくぐって、後部シートの、百五十ポンド分のドライ・アイスの塊になるべく近いところに腰を降ろした。

そのドライ・アイスは、エンジンを切って監視活動を行なう際、暑い車内のエアコン代わりに使われるのだ。
オンボロのヴァンには、決して払い落とせない、恐怖と汗が渾然となったサルの艦のような臭いがこびりついている。隠密捜査に使用されはじめてから、ボディ側面にとりつけられた広告プレートは数知れない。

今回の、色挺せた汚いプレートは、つい三十分前にとりつけられたものだ。充填剤で埋められた弾痕はもっと古い。

黒い窓はマジック・ミラーになっていて、ほどよく汚れている。背後に従うSWATチームの黒い大型ヴァンが、クラリスの目によく見えた。あの連中、突入準備を終えるのに何時間もかからなければいいが、と思う。
クラリスが窓のほうを向くたびに、男性捜査官たちの視線が彼女に注がれる。

FBI特別捜査官、クラリス・スターリング。三十二歳。彼女はいつも実際の歳に見えたし、出動服を着ていても、その歳を魅力的に見せていた。
ブリガムが前方の助手席からクリップボードをとりあげた。
「きみはどうして、こんなやくざな任務にばかり駆りだされるんだ、スターリング?」微笑いながら、彼は言った。

「あなたが、わたしのことばかり指名するからだわ」

「いや、今回の任務にはどうしてもきみが必要なんだよ。でも、きみはしょっちゅう、悪漢どもを奇襲して逮捕状を執行するような、がさつな任務に使われてるじゃないか。
おれが毎度毎度きみを指名しているわけじゃない。たぶん、司法省にきみを毛嫌いしてるお偉方がいるんだろう。いっそ、おれたちの組織に移ってきたらどうだい。
それはそうと、きょうのメンバーを紹介しておこう。おれの部下のマーケス・パーク捜査官に、ジョン・ヘア捜査官。それと彼は、ワシントン市警のボウルトンだ」

ATF、DEA一麻薬取締局一のSWATチーム、それにFBIから成る混成急襲チームは、FBIアカデミーすら資金不足で閉鎖される時代を象徴するような、予算抑制を至上課題とする方針の産物だった。
パークとヘアはいかにも捜査官らしい顔をしている。ワシントン市警のボウルトンは、法廷の廷吏を連想させた。年の頃は四十五、ぶくぶくと太った男だ。

自ら麻薬使用容疑で断罪されたことのあるワシントン市長は、麻薬取締まりに熱心なところを見せたくて、ワシントン市内で大規模な手入れが行なわれる際はワシントン市警にも功名のお裾分けを、と日頃から主張している。それでボウルトンが一枚加わっているわけである。
「ドラムゴの一党が、きょう、ヤクを加熱処理するらしいのさ」ブリガムが言った。

「イヴェルダ・ドラムゴね。やると思ってたわ」表情も変えずにクラリスは応じた。
ブリガムはうなずいた。「あの女、ポトマック川沿いのフェリシアナ・フィッシュ・マーケットの近くに、アイスの精製所を設けたんだ。タレコミ屋の話だと、彼女はきょう、かなりの結晶を処理するらしい。

しかも彼女、今夜のグランド・ケイマン島行きの飛行機をすでに予約している。ぐずぐずしてはいられんのさ」
メタンフェタミンの結晶、通称”アイス”は、短時間ながら強力な陶酔感をもたらす、殺人的に中毒性の高い麻薬なのである。
「麻薬というとDEAの管轄なんだが、われわれは第三分類に属する武器の不法州間輸送の廉でも、イヴェルダを逮捕したいんだ。令状にはその武器が特定してある数挺のベレッタ・サブマシンガンとマック10だ。あの女はもっと大量の武器の隠匿場所を知ってるに相違ないしな。きみはもっぱらイヴェルダの拘束に全力をあげてくれ、スターリング。彼女のことは前にも扱ってるわけだし。この連中がきみをバックアップするから」

「こいつは簡単にすみそうだね」ワシントン市警のボウルトンが安心したように言う。
するとブリガムが、
「この連中にイヴェルダのことを話してやってくれよ、スターリング」

ヴァンが鉄道の踏切の上をガタゴトと通過し終るのを待って、クラリスは口をひらいた。「イヴェルダは頑強に抵抗すると思って。外見はまったくそんなタイプじゃないけど以前はモデルをしてたことがあるしでも、とことん抵抗するわ。

死んだ夫がディジョン・ドラムゴなの。わたしは組織犯罪取締法違反容疑で、彼女を二度逮捕したことがある。最初のときはディジョンと一緒にね。そのときイヴェルダは九ミリの拳銃を携帯していて、ハンドバッグには三個の弾倉とメース(催涙ガス用神経麻酔剤液)のスプレーを忍ばせていたわ。ブラジャーの中にはフィリピン製のバタフライ・ナイフを隠していたし。いまはどんなものを携帯しているかしら。

二度目に逮捕したときには、観念するように誰々と訴えたの。そうしたら素直に逮捕されたんだけど、こんどはワシントンの拘置所内で、マーシャ・ヴァレンタインという囚人を殺してみせたわ。スプーンの柄でね。だから、本当に何をしでかすかわからない女……その表情も読みとりづらいし。拘置所内の殺人については、大陪審が正当防衛の判断を下したんだけど。
組織犯罪取締法違反容疑に関して言えば、彼女、最初のときは裁判で勝ち、二度目のときは司法取引で罪を軽くしてもらったの。武器の不法輸送に関する容疑が取り下げられたのは、彼女が乳児を抱えていたのと、夫のディジョンがプレザント・アヴェニューで殺されたばかりだったため。ディジョンは走ってきた車から銃撃されて死んだんだけど、やったのはストリート・ギャングの”スプリッフ団〃という説がもっぱらね。

きょうもわたしは、抵抗しないように彼女を説得するつもり。素直に降伏してくれればいいんだけど─そのためにも、こちらが圧倒的に優位に立っていることを見せつけないと。でも─よく聞いてあのイヴェルダ・ドラムゴを取り押えるには、なまなかなバックアップじゃだめよ。
わたしの背後を見張ったりしなくていいから、彼女に十分なプレッシャーをかけてほしいの。これからわたしとイヴェルダの泥んこレスリングを観戦するんだなんて、そんなお気楽なことは考えないでね、みんな」

以前のクラリスだったら、この連中にも一定の敬意を払っただろう。この連中は、彼女の説明に鼻白んでいる。が、いまのクラリスは、もうそんなことを気にするほどヤワではなかった。
「イヴェルダ・ドラムゴは、ディジョンを通じて”トレイ・エイト・クリップ団”とつながっている」ブリガムが口をはさんだ。「タレコミ屋の証言だと、彼女は”クリップ団”に護衛してもらっているようだ。”クリップ団”はその見返りに、西海岸で売り捌くヤクを得ているんだろう。連中が警戒している相手は、主としてライヴァルの”スプリッフ団”だと思うがね。”クリップ”のやつらがわれわれを見てどういう反応を示すか、予想はっかない。ま、よっぽどのことじゃないかぎり、やつらは官憲には盾つかないようだが」

「これはぜひ知っておいてほしいんだけどイヴェルダはエイズにかかっているの」
クラリスは言った。「夫のディジョンからヤクを打たれたとき、注射針から感染したのね。彼女は拘置所でそれに気づいて、キレてしまったらしいわ。その日にマーシャ・ヴァレンタインを殺し、看守たちと争ったんだから。丸腰なのにイヴェルダが抵抗したら、彼女がまき散らす体液に注意すること。彼女は唾を吐いたり、噛みついたりするでしょうから。無理やり押えつけようとすれば、こちらに触れるように、わざと放尿したり脱糞したりするかもしれない。だから、手袋とマスクの着用は必須だと思って。彼女をパトカーに乗せようとして頭を押えつけたりするときは、髪の中に針が隠されてないか注意しないと。それと、彼女の両足を縛りあげること」

パークとヘアの顔が深刻な表情を帯びはじめた。ワシントン市警のボウルトンは浮かない顔をしている。彼はクラリスの拳銃のほうに、そのだぶついた顎をしゃくった。
彼女が帯びているのはよく使い込まれたコルト45ガヴァメント・モデルで、銃把にはスケートボード・テープを巻きつけてあり、いまは右のヒップに装着したヤキ・スライド・タイプのホルスターに差し込んである。

「あんたはいつも、そいつの撃鉄を起こしたまま歩きまわってるのかい?」ボウルトンは訊いた。
「ええ、起こした撃鉄にセーフティ・ロックをかけてね。勤務中は常時そうしてるのよ」
「危なくないかね、それじゃ」

「射撃練習場にきてくれれば、納得のいくように説明してさしあげるけど」
ブリガムが割って入った。
「このスターリングが三年つづけてFBI部内の。ピストル実技コンテストのチャンピオンになったとき、コーチをしたのはこのおれなんだよ、ボウルトン。だから、心配要らん。なあ、スターリング、”人質救出チーム”の連中、あの”ヴェルクロ・カウボーイズ”がきみに敗れたとき、連中はきみのことを何て呼んだっけ?あの射撃の名手、”アニー・オークリー”か?」
「”ポイズン(毒入り)・オークリー”よ」クラリスは言って、窓の外に視線を転じた。

男たちのひしめく、この不快な臭いのする監視用ヴァンに乗っていると、身を刺されるような孤独感に包まれる。
鼻をつくのは安物のアフターシェイヴの匂い”─チャップス”、”プルート”、”オールド・スパイス”。それに、汗と革の匂いだ。ふっと不安が忍び寄ってきて、それは舌の下に含んだ一セント銅貨の味がした。

(脳裡に、あるイメージが割り込んでくる。タバコと洗浄力の強い石鹸の香りをいつも発散していた父。キッチンに立って、先端が四角く割れたポケットナイフでオレンジの皮をむき、それを自分に分けてくれた父。彼が夜間パトロールに出かけたとき、しだいに遠ざかっていった。ピックアップ・トラックのテイルライト。

そのパトロールで、父は落命したのだ。クローゼットに残っていた父の衣服。スクェア・ダンス用にとっておいたらしいシャツ。自分のクローゼットにもいま、なかなか着る機会のない素敵なドレスがいくつかある。屋根裏の玩具のように、ハンガーに吊されたままの、わびしいパーティ用ドレス)。

「あと約十分」ドライヴァーが後ろに向かって叫ぶ。ブリガムがフロント・ウインドウの前方を見やってから、腕時計をチェックした。
「よし、これが見取り図だ」彼はマジック・ペンで急いで描いた簡単な図と、市の建物課からファックスで送られてきた、ぼやけた間取り図を手にしていた。「このフィッシュ・マーケット・ビルは、川岸に並ぶ店舗や倉庫の延長線上にある。パーセル・ストリートは、このフィッシュ・マーケットの前の小さな広場に突き当って、リヴァーサイド・アヴェニューにつ、づいてるんだ。

これでわかるように、フィッシュ・マーケット・ビルは川を背中にしている。その川沿いのこの部分、ちょうどビルの背後に、船着き場がある。イヴェルダの精製所は、このビルの一階の隣りだ。入口はビルの正面、フィッシュ・マーケットのひさしのすぐ隣り。おそらくイヴェルダは、ヤクを精製しているあいだ、すくなくとも周囲三ブロックにわたって見張りを展開させているだろう。

これまでも、そいつらが目ざとく知らせたため、手入れ直前に、イヴェルダがまんまとヤクを処分してしまったことがある。で三台目のヴァンに乗り組んでいるDEAの正規の急襲チームは、十五時きっかりに、船着き場のフィッシング・ボートから突入することになっている。このヴァンのわれわれは、その数分前に、道路側の戸口にだれよりも接近できるはずだ。もしイヴェルダが表に出てきたら、そこで拘束する。

出てこなければ、DEAの連中が裏口から突入した直後に、われわれもこの表口から突入する。二台目のヴァンは、われわれの後方掩護だ。あれには七人乗り組んでるが、こちらの指示がないかぎり、連中も十五時に突入する」

「正面入口の扉は、どうやって押し破るの?」クラリスが訊いた。
するとパークが口をひらいた。「もし中で何も物音がしなけりゃ、ハンマーを使う。閃光弾の音や銃声が聞こえたら、”エイヴォン・コーリング”の出番だな」彼は自分のショットガンを撫でさすった。

それが使用される場面は、クラリスも見たことがある。”エイヴォン.コーリング”
とは火薬入りの微細な鉛の玉がつまった三インチのマグナム・ショットガンの薬包のことで、それを使うと内部の人間を損傷させずにドアのロックを破壊できるのだ。

「イヴェルダの子供たちは?あの子たちはどこにいるの?」スターリングは訊いた。「われわれの内通者は、彼女が託児所に子供たちを預けたところを見ている」ブリガムが答えた。「そいつは彼女の家庭事情にもえらく精通していてね。コンドームみたいにぴったりと、あの一家に密着しているのさ」
ブリガムの無線のイアフォンが、ブーツと鳴った。後部ウィンドウから覗けるかぎりの空を、彼は見まわした。

 

 

・・・・続きは書店で・・・・

http://www.books-ruhe.co.jp/ ****** ・・・・・・HOME・・・・・・