殴られ屋
 
 
  殴られながらでも人生には生きる価値がある 夢に向かって放つ渾身の自叙伝  
著者
晴留屋明
出版社
古川書房
定価
本体価格 1300円+税
ISBN4−89236−293−X

プロローグ

〜歌舞伎町コマ劇場前 午前零時〜

だれか私を殴ってください!

午前零時。新宿歌舞伎町、コマ劇場前広場私は、街行く人々に向かって声を張り上げた。「さあ、だれか私を殴ってください!」日本随一の歓楽街は、きょうも多くの酔客が渦を巻いている。「私が歌舞伎町の殴られ屋です!一分間、千円で殴り放題!どうぞ私を殴ってストレスを解消していって下さい」そう連呼するうちに、人波が少しずつ私を取り囲みはじめた。「なんだ、なんだ?」「殴られ屋だってさ」「へえ、なんだかおもしろそうじやないか。

おまえ、やってみろよ」そういって、数人の男たちが私に近づいてくる。すると、その中の一人の男が、ジャケットを脱ぎすてるなり、それを仲間の一人にひょいと放り投げた。かなり腕っぷしの強そうな男だ。男はズボンのポケットから財布を取り出し、中から千円札を一枚抜き取ると、人だかりの輪の中から飛び出るようにして私の前に立った。

「やらしてくれよ。千円であんたを殴っていいんだろ」「はい。ありがとうございます」私は、男が差し出した金を両手で受け取り、それと引き換えにして、男に赤いボクシンググローブを手渡した。男はグローブをっけ終わると、その両手をグルグルッと大きく回し、「覚悟しろよ。思いつきり、ぶん殴ってやる」そういってから、グローブとグローブをバンバンと叩き合わせた。私は、自分も同じグローブをつけてから、集まってきた見物客にもよく聞こえるように叫んだ。「あなたの持ち時間は一分間です。

殴りたい放題、殴ってください。もちろん私は一発もあなたを殴り返しません。もし、私が途中でダウンして立ち上がれなくなってしまったら、そこでゲームオーバーとなりますので、そのときはどうかお許しください!」私の声を聞いて、見物客たちが一斉に身を乗り出しはじめた。「よ−し、ぶつ倒してやれ!」「まかせとけ」男は仲間の声援に応えると、スタートの合図を待ちかねたように、ステップを踏んで勢いよく前に突っ込んできた。

私は、男の動きに目を凝らした。男が右の拳を大きく振り上げ、私の顔面めがけてするどいストレートを放ってきた。私は男のリズムを盗んで、軽く二度三度ステップしながらそのパンチを見切り、わずかに右に顔をそらしてかわした。男は少しよろけた体勢を素早く立ちなおして、今度は右アッパー、左アッパー、そして、もう一度、右ストレートを狙ってきた。

私が小刻みにフットワークを使ってそれをかわすと、男は、チッと舌打ちをした。少し足を止め、私の目をにらみつけるようにしている。今度は男のほうが私の動きを見定めようとしているようだ。格闘技の経験者ではなさそうだが、パンチのスピードと破壊力は人並み以上にありそうだ。まともに食らったら、かなりのダメージを受けるだろう。「どうした!どんどん行け!」「打ちまくれ!」男の仲間が声援を飛ばしている。「行け、行け一」「倒せ!」観客たちの間からも、どよめきとともに、声が飛んでくる。「よ−し、行くぞ!」男は意をけっして、再び突っ込んできた。大ぶりの右ストレートが、私の鼻先で鋭く空を切った。

さらに、左、右、と、ワンツーをくり出した後、間髪入れず左アッパーを狙ってきた。さっきよりもいくぶん振りを小さくしたぶん、男のパンチが私のあごをとらえた。「バシッ!」仲間たちが矯声を上げた。「おお!当たったぞ」「もっと、行け!」勢いづいた男は、さらに前に踏み込んで、ワン、ツー、スリーと、続けざまにパンチを出してくる。その三つ目のストレート。男の右腕が長く伸び、私の左頬を鋭くかすめた。「ピシッ」男の息づかいが、いくぶん荒くなっている。だが、手数は減らない。左右のフックを数発連打してボディを狙ってきた。私は小さくサイドステップを繰り返してそれを避けながら、男の表情に目を凝らした。

男の呼吸音が、さらに高くなっている。男は少し間をとって呼吸を整えてから、再び挑みかかってきた。踏み込んでは連打、また踏み込んでは連打。さっきまでのように、ピンポイントでどこかを狙うというよりは、数打てばどれかが当たるだろうといわんばかりのパンチの乱れ打ちになっている。ほとんどのパンチは見切ることができたが、ボディに二発、顔面に一発、偶発的なパンチをもらってしまった。さらに、直接はパンチが入ってはいないものの、私がグローブでガードした場所に男のパンチが強く当たると、バシッ、バシッという音が辺りに響く。その音に見物客たちが敏感に反応し、大きな歓声を上げる。

「おい。入ってるぜ!」「めった打ちだ!」私は、ちょっと身を縮めるようにガードしながらも、相手に私の顔がよく見えるようにグローブを低く下げ、「さあ、こい」という表情をしてみせた。ここで顔を隠してしまっては、殴られ屋にならない。バックスチップを多用して逃げ回るようなことは許されない。あくまで、相手のパンチが私の体に届く距離を保ちながら、相手から見たらいつでも殴れそうな構えでパンチを待ち受けなければならない。男は、残り時間を惜しむかのように、私の顔面めがけて最後のラッシュを浴びせてきた。男がパンチを出す数が増えれば増えるほど、見物客たちのどよめきが大きくなる。

そのどよめきにつられて、さらに人垣が大きくなってくる。「やっちまえ!」「ぶつ倒せ!」頭から突っ込むようにしながら横殴りのパンチを出してきた男の右拳が、私の脇腹をヒットした。やけくそ気味に振り回してきたぶん、勢いのあるパンチだ。私が思わず、そのパンチを受けて身を硬くしたとき、ちょうど一分が経過した。一分の間、これだけ間断なく最後まで手を出し続けるとは、格闘技未経験者とは思えないほどの手ごわい客である。男はタイムアップの声を聞くと、すぐに手を止め、グローブをはめた両手を膝について、地面に向かって荒い息を吐き出している。「ハァハァ。思った以上に当たらないもんだな……」

私は、その肩を軽く抱くようにしながら、声をかけた。「いや、強い。ずいぶんパンチをもらってしまいましたよ……」私の息も少し上がっている。長い一分間だった。「おれは昔から、ケンカならだれにも負けたことはないんだ。きっと、あんたを倒せると思ったんだけど……」男は深呼吸の合間にそういうと、顔を上げ、ファイティングポーズをしてみせながら、こう問いかけてきた。「あんた、ボクシング、やってたんだろ?」「ええ。昔、少しばかりやってました」「そうだろうなあ。あの身のこなしは」男はグローブをはずし、仲間からジャケットを受け取ると、はじめて笑顔を浮かべ、こういった。「ありがとう。なんだか、すっきりしたよ」

「こちらこそ、ありがとうございました」「いつも、ここで商売してるの?」「はい。毎晩、ここに立ってます」男は、さっきまで振り回していた右手で私に握手を求めてきた。「また寄らしてもらうよ」「ぜひよろしくお願いします」私は、深くお辞儀をしながら、男の手を握り返した。男が手を振りながら立ち去ると、それを待ち構えていたかのように、サラリーマン風の若い二人組が声をかけてきた。

「おれたちも、やらせてもらえる?」これまで私は、のべ約八千人の人たちに殴られてきた。ときには、元プロボクサーのパンチをまともにテンプルに食らってダウンし、ときには、ヤクザのフックを浴びて胸骨を骨折し、ほかにも肋骨骨折と足の捻挫は持病のように慢性化している。額が割れたり、鼻血や口の中を切ったりするのは、学校の先生がチョークの粉を衣服につけているのと同じようなもので、それを嘆いていたら商売にならない。

「そんなことしたら、いっか殺されてしまうぞ」そう家族や周囲の人たちに大反対されながらも、路上に立ち続けてきたのだ。現在、私の会社はほとんど休業状態である。社員たちは会社を離れ、それぞれの道を歩いている。それでも私は会社を放り出してはいないので、登記簿上は社長のままになっている。一億五千万円の負債はすべて私個人にかかっているのだ。「おれは逃げない」といった以上、私は命を投げ出してでも、借金を返済していくつもりで生きている。

しかし、私自身が「命を投げ出して」と騒ぐのは勝手だが、殴られて死んでしまったら、残された妻と三人の子供たちはどうなるだろう。殴られ屋をはじめることに大反対だった妻は、当然ながら、私が商売をしている現場に足を踏み入れたことがなかった。ところが、あるとき、妻は、なかば無理やりのように、私の知り合いに連れてこられたことがある。

ひと晩中、私の姿を人波の影から伏目がちに見ていた妻は、商売を終えた私に、「こんばんは。お久しぶり」と静かに声をかけてきた。それは、約一カ月ぶりの夫婦の対面だった。私たちは一子四時間営業の喫茶店に入った。店内には、時間を忘れて楽しく語り合っているカップルや、仲間同士で遊びにきている客たちで賑わっている。明るい笑い声があちこちで飛び交う中、私と妻は、テーブルをはさんで向き合った。

しばらく言葉を失っている妻の前で、私はくしゃくしゃになった千円札を一枚一枚広げて、その日の売上げを勘定した。千円札が三十六枚、三万六千円。それが、一晩かけて三十六人を相手にした金だった。「これ、きょうの売上げ」私は、そういって、重ねた千円札を妻のコーヒーカップの隣に置いた。「大丈夫。とにかく、おれは、こうやってがんばってるから」「……」「なんとかなるからさ」「大丈夫」「なんとかなる」ただ、それだけを繰り返している私を見て、妻は、ゆっくりと口を開いた。

「なにいってるのよ……。どこが大丈夫なの……」「どこがって、全部、大丈夫さ」妻は、私の顔を見つめなおしてから、まるで子供にでも話しかけるように、こういった。「こんなに顔を腫らしちゃって……。私、きょう、とても見ていられなかった……。あなた、本当に死んじゃうわよ」「大丈夫、心配するな。そのうち、一発逆転するから」「またバカなこといってる……」妻は落ち着いた口調で、こう続けた。「あなたは、この数年間、『大丈夫、なんとかなる』って言ってきたけど、ぜんぜん何ともならなかったでしょう」私は、これまで家族に苦労をかけ続けてきたことを改めて思い出し、情けなさのあまり、涙がこみあげてきた。妻は私にハンカチを差し出した。「泣かないでよ。泣きたいのは、こっちなんだから」

「すまん……」まったくそのとおりである。家族を泣かせている私がメソメソ泣いている場合ではない。私からの仕送りが不足しているために、アパートの家賃を三カ月分も滞納して困っているのは妻であり、子供たちなのだ。「あなたが私たちのために、こんな思いまでしてがんばっているのはわかっています。だけど……」妻はそこまでいうと、また口をつぐんだ。いくら家族のためとはいえ、こんなバカなマネはやめてほしい。妻がそういいたいのはわかっている。だが、いまの私にはこれしかできない。涙と血と汗をきれいにふいたら、再び歌舞伎町の街に立つしかないのだ。「さあ、だれか私を殴ってください!」

 

 

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