「新編」石原慎太郎「5人の参謀」
 
  辣腕知事の500日を全追跡 人材登用と生きる組織  
著者
上杉隆
出版社
小学館
定価
本体価格 1400円+税
第一刷発行
2001/3/1
ISBN4− 09−387340−2

はじめに

二〇〇〇年八月、拙著『石原慎太郎「5人の参謀」』(小学館文庫版)を上梓したあとも、都政は動き続けている。石原慎太郎東京都知事は、矢継ぎ早に新しい手を打ち出して、常に話題の中心を占めている。「外形標準課税」発表時の熱狂的ブームからは、やや落ち着きを見せた感もあるが、それでも支持率は七四・六パーセントもの高率を集め(東京都政策報道室集計・二〇〇〇年八月十七日)、雑誌のアンケートでも都知事という総理大臣の要件を満たしていない立場でありながら「首相にしたいナンバーワン」に選ばれている(『文藝春秋』二〇〇〇年八月号)。

本書は、その後の石原都政の変化と政策決定過程を彼の参謀に焦点を当てることによって、再び追ったものである。新しい材料として、文庫版上梓後からの半年で注目すべき動きを見せた「東京都総合防災訓練(ビッグレスキュー東京二〇〇〇)」と「東京都税制調査会答申(新四税)」の二つを取り上げた。 よって文庫版の部分を合わせると、石原都政のおよそ五百日を追った計算になる。特記すべきは、「ビッグレスキュー東京二〇〇〇」における志方俊之東京都参与(帝京大学教授)である。

志方の見せた動きは極めて重要であり、新たに一人の参謀として付け加えたいほどである。変更が難しいということで、あえて本書のタイトルはそのままにしているが、事実上六人目の参謀と考えていただきたい。なお、この[新編]を出すにあたって、多くの部分は時間の経過等で余儀なくされた文庫版への加筆を基に完成させた。ただしいくつかの章では改めてインタビューをしたり、再度、事実関係を確認したりなどして、改訂があったことを付記しておきたい。

また出典に関しては、煩わしいという向きもあるようだが、当然の道理として、逐一本文中で明らかにしている。なお文中の敬称はすべて略している。

二〇〇〇年十二月二十一日

上杉隆

 

 

プロローグ

ある四月の曇天の朝、三浦半島の南端、相模湾に面した油壷のハーバーを出航した「コンテッサ11世」は舳先を北に向けた。元秘書、選挙スタッフ、学生ボランティアらを乗せたこのヨットクルーザーは、浜木綿の咲く佐島を右舷に見ながら葉山沖の水域に艇体を走らせた。森戸・名島の「裕次郎灯台」をかすめると、元秘書の今岡又彦が舵を取るこの船は、逗子の入江に向けて帆走した。東急エ−ジェンシーに勤める今岡は、幼い時分よりこの海に親しんできた。それは湘南で育った子どもなら当たり前のことであった。学生時代、今岡は、かって北海道に住んでいたという二人の兄弟に出会った。

二人は専用のヨットを持っていたため、その地域の中心的存在になっていった。兄弟は石原慎太郎、裕次郎であった。この二人が中心となって遊び仲間が広がっていく。湘南の海で結ばれたこの友情は、強く固いものになった。このヨット仲間たちの「海」は、相模湾から、小笠原、ハワイ、太平洋へと広がっていった。同時に彼らの生きる「社会」も学生、映画、テレビ、そして政治へと広がっていったのだ。ぽつりぽつりと降り出した雨の中、「コンテッサ11世」はスピードを落とした。逗子の入江を見下ろす崖の上には、ほんの数週間前に、東京都の知事になったばかりのこのヨットのオーナーの家があった。

新しい都知事は今岡の友人であり、ヨット仲間でもあり、かつてのボスでもあった。その家を見上げながら、船は逗子マリーナに向かった。北海道小樽から湘南逗子に引っ越してきた石原家の父が、長男・慎太郎、次男・裕次郎に与えた遊び道具はヨットであった。一九五〇年前後の湘南、小型のディンギとはいえヨットを所有する高校生はいない。「私たちは家柄や財産なんぞと関わりなしに、湘南にあってはまぎれもなく選ばれた者だった」(石原慎太郎『弟』)という明らかな特権意識の芽生えの中、兄弟は海に親しんでいった。

しかし兄弟とはいえ、海への接し方はそれぞれ違っていた。慶応高校に通う弟は、学風からか多くの女友達を連れ、男の友人をクルーに見立ててのヨット遊びが主だった。一方、そんな弟への「嫉妬と焦り」を密かに抱く地元の高校生の兄は、かえって一人での航行を選ぶのだった。ある日、葉山から長者ヶ崎のさらに向こうの佐島に浜木綿が咲くことを知った,)の湘南高校の学生は、小さなヨットでの単独航行を試みた。穏やかな風の朝、田越川の近くの家(当時)を出発した兄は昼過ぎに目的の佐島に上陸する。

天然記念物の浜木綿を一輪折ると、今度は一転北に向かって帆走した。午後五時、逗子の入江に戻った兄は早速一輪の浜木綿を弟に差し出した。それは石原慎太郎が、当時唯一の海のライバルであった弟に勝った瞬間だった。「セイリングホスト」の弟を羨んだ「シングルハンダー」の兄はこれ以降、兄弟でのヨット遊びや同級生とのクルージングなども好むようになった。それはやがて、自分の息子たちとの航海や一橋大学同級生との地中海クルージングなどに発展する。さて、ある秋の午後、その若い兄弟が逗子の入江に彼らのディンギを走らせていたところ、白い優雅なワンテン型のヨットが滑ってきた。静かに帆走するその姿を見て、弟が「伯爵夫人だな、あれは伯爵夫人だよ」と呟いた。その後「伯爵夫人」、イタリア語で「コンテッサ」は、二人の歴代ヨットの名前になった。

この「海の男」たちはのちに日本を席巻する兄弟となるが、当時はまだ逗子、石原家の秀才の兄と放蕩の弟に過ぎなかった。二人は確かに海を愛し、湘南を愛し、ヨットを愛していた。だがそれは海で生計を立てる、たとえば漁師たちのような意味での「海」への愛ではなく、父親から与えられた玩具、つまりヨットを浮かべるための「海」への愛であった。そこには常に「選ばれた者」としての自負があり、われわれは特別なのだという意識が離れなかった。

その自負はそれぞれの鮮烈なデビュー後もついてまわる。それは譬えて言うならば、ヨットの舵を取るスキッパーは必ずこの兄弟であり、兄弟以外の同時代人はすべてヨットのクルーなのだ。クルーはこの兄弟の特権の配分を受ける代わりに、彼らに忠誠を誓わなければならない。仮に逆らうとしたら、そのときは陸に上がるか、もしくは海に飛び込まなければならないことを意味するのだ。

一九六三年、「コンテッサ三世」で国際ヨットレース初挑戦を果たした兄は、その後作家から政治家へと転身する。海を愛するこの政治家は『ニューヨーク・タイムズ』とのインタビューの中で、自身の政治スタイルの原点はヨットレースにあると語った。「国際ヨットレースではひとつのブイをめぐって、多くの艇がギリギリのところで勝負をしてくる。人が死ぬこともあるほど、ヨットレースは危険なものなんだ。

一応細かいルールが決められてはいるが、一旦レースが始まればお互い、罵り合い、自己主張し合い、決して譲らない。世間ではヨットというと優雅な競技だとみられているみたいだが、とんでもない、ほとんど喧嘩腰だ。でも、その激しいレースがすべて終われば、それまで罵り合っていた連中が、一緒に肩を叩き合ってウイスキーを飲むんだ。この駆け引きや真剣勝負が、そのままぼくの政治スタイルにもなっているな」小さなヨットを父にねだった兄弟のうちのもう一人は、のち映画俳優になった。

兄と一緒にヨットに乗ることを嫌ったこの弟は、一九八七年、肝細胞がんで死んだ。この弟にとって、兄・慎太郎は兄以上の存在だった。父親が死んで、先行き不安な石原家を救ったのは、流行作家となった兄だった。弟の映画デビューも兄の売り込みが端緒だった。裕次郎にとって兄は兄であると同時に、死んだ父親の代わりでもあった。弟は兄と行動することを「ときどきうざったいと感じていた」と今岡が語る。この二人の兄弟は本当に仲が良かったが、海の上では一貫してライバルであった。時にはわざわざ別のヨットに乗り換える弟の姿も見られた。ひとつのヨットに二人のスキッパーはいらないのだ。その弟を失ってしばらくの間、兄は「巨きな虚脱感」の中にいた。兄は、意外に思い悩むタイプであった。

その男がひとりつきりの弟を亡くしたのだ。くよくよしないはずがない。ようやく兄は、その弟を断ち切るかのように小説『弟』を書き、自らの人生を描き直すかのように政治の世界に戻った。一九九九年三月、兄・石原慎太郎は東京都知事選挙に出馬した。新しく都知事になる石原慎太郎のクルーたちを乗せて、「コンテッサ11世」はその命名者の死を悼んで建てられた灯台を、今度は左舷に見ながら南に帰っていった。さらに先にはやはり五十年ほど前、そのヨットの持ち主が今は亡き弟への対抗心から上陸した浜木綿の群生する佐島が、灰色に垂れた低い雲と鈍い色をした葉山の海面に重なり合うように見えた。この都知事の政治スタイルの原点がヨットレースにあるとしたら、その原点の原点は、一人で航行した「佐島への冒険」であり、ライバルである弟・裕次郎に勝った喜びであった。

 

 

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