プラナリア
 
 
  第124回直木賞受賞 <働かない>彼女たちが抱えるやるせない想い ・ 山本文緒が描き出す現代の五つの心のかたち  
著者
山本文緒
出版社
文藝春秋
定価
本体価格 1333円+税
ISBN4−16−319630−7

プラナリア(Planaria)

三岐腸目のプラナリア科に属する扁形動物の総称。

体は扁平で、口は腹面中央にある。

体長二○〜三〇ミリメートル。渓流などにすむ。

再生の実験によく使われる。

「大辞林一第二版より

次に生まれてくる時はプラナリアに。酒の席での馬鹿話で私が何気なくそう言ったら、意外にもみんなは興味深そうにこちらを見た。前のバイト先で知りあった年下の子たち三人と、隣には私の彼氏が座っている。「何プラナリアって?」「あ、あたし知ってる。氷山の下でぷかぷか泳いでる、天使みたいな可愛いのでしょ」「それはクリオネなんじゃないの」みんなが口々に言うのを、私はフォア・ローゼズのグラスをからからいわせて止めた。「違う違う。大きさ的には同じくらいなんだけど、プラナリアは海じゃなくて山奥のきれいな小川とかにいるの」へええ、と女の子二人と男の子一人が声を合わせる。彼氏は既に私からその話を散々聞かされているので、黙ったままつまみの残りを口に運んでいる。

「この前テレビで見たんだけどね。渓流の石の下とか、農薬使ってない田んぼの水路とかにいる、一センチくらいの茶色いヒルみたいなの。よく見ると頭が三角形でちょっと卑猥な形なんだけどさ」どう卑猥なのよ、とみんなは笑う。私はグラスの酒を飲み干してお代わりを頼んだ。もう飲みはじめて三時間近い。女の子二人と私の彼氏はアルコールをやめてウーロン茶を頼んでいた。「なんで、そんなものになりたいんすか。春香さんは」唯一飲む気いっぱいの二十歳の男の子がそう聞いてきた。答えようとする私の出端をくじいて、片方の女の子が口を挟む。「分かるような気がするなあ。そういう生き物なら、きれいな水の中でふらふらしてればいいだけで、な一んにも考えないで済むもんね」

「え−、あたしはそんなヒルだか亀頭だかみたいなもんはやだな。やっぱ次に生まれてくる時はスーパーモデルがいい」「亀頭とか言わないでくださいよ、女の子がさあ」話がそれてきて私は不機嫌になり、わざと大きな声を出した。「でね、プラナリアって、切っても切っても死なないんだよ」みんなはきょとんと私の顔を見た。「たとえばみっつに切っても、それがいつの間にか再生して三匹になっちゃうんだって。三匹どころか十個に切り分けても、とかげの尻尾みたいににょきにょき育って十匹になつちゃうんだから」妙に力の入った、でも幼稚な私の説明に全員が一瞬言葉を失った。そこに頼んだ飲み物がきて、女の子二人は「なんか甘いもの食べようか」とメニューを開いて相談しだした。「本当っすか、それ」男の子だけがまだ興味を示してくれていて、私は酔った勢いで熱弁した。「本当だって、尻尾の先っちよしかなかった奴まで、最後には亀頭ができちゃって再生しちゃうの」

「やめとけよ、春香」そこで彼氏が小声で言った。喧騒の居酒屋で、テーブルの向かいに座った他の三人には聞こえなかったようだ。「プラナリアって節足動物なんすか?」「え?節足動物って何?」「えっと、じゃあそいつってチョウチョとかミミズみたいなの?」「そんなんじゃなくて、ヒルみたいなの」「単細胞なんすか?」「分かんないわよ、そんなの。でも放っておくと大きくなって、勝手に二つに分かれて増えるっていうからそうなんじゃないの」身を乗り出して私はさらに大きな声を出す。「よく知らないけどさ、とにかく切っても切っても生えてきちゃうなんて、馬鹿みたいでいいじゃない。ほら私、乳がんでしょ。だからそういうもんに生まれてたら、取った乳も勝手に盛り上がってきて、再建手術の手間とお金が省けたな一って思ってさ」笑わせようと思って言ったのに、男の子は困ったような気弱な笑みを浮かべ、タピオカミルクか苺シャーベットのどちらにしようか相談していた女の子二人は、気まずそうにうつむいてしまった。

「そろそろ引き上げようか」彼氏がそう言い、誰の返事も待たずに立ち上がる。みんなは明らかにほっとした顔をしていた。「いい加減にしろよ」 豹介は車のエンジンをかけ、呆れかえった声を出した。「みんな困ってたじゃないかよ。ルンちゃんの悪い癖だよ」「秘密にしてないよ。みんな知ってることだもん」「そうじやなくてさ。盛り上がって飲んでる時に、なんでそんなつまんないこと言うんだよ。ほんとに露悪趣味だよな」そうかよ、乳がんはつまんないことなのかよ、と内心思っても豹介の前では悪態はつかない。「もう自分で自分の病気のこと言うの、やめなよね。そんなんじゃルンちゃん、本当に友達なくすよ。今度の飲み会も不安だなあ。僕の友達なんだから、今日みたいなことはやめろよな」ルンちゃんというのは言うまでもなく私のことで、春香→ハルちゃん→ハルルン→ルンちゃんと活用して今に至る。他人がいる時は一応名前で呼び合っているが、二人きりになると私たちは「ルンちゃん」「ヒヨッチ」と呼び合うのだ。

恋人同士というのは、二人だけになるとそういうふうに幼児化するものだと分かってはいても、「ルンちゃん」と呼ばれる度どこかしらけていく私がいる。「ああ、なんかまた具合悪いかも」彼が信号でブレーキを踏んだとたん、軽い吐き気がこみあげてきて私は呟いた。「酒、飲みすぎなんだよ。具合が悪いとか言いながら、週に何度も飲んでるじゃない。禁酒してスポーツクラブでも行ったら?そしたら少しは痩せるんじゃない」さっきの居酒屋ではほとんど発言しなかったのに、二人きりになると彼はぺろぺろとよく喋った。人前だと無口なのは内弁慶な性格と、まだ大学三年生だというのもあるだろう。若いのに私より百倍常識的な彼は、人前では四つも年上の私を一応立ててくれるのだ。「ルンちゃん、うち寄ってく?」豹介がふいに甘えた声を出す。今、具合悪いって言っただろうが。

まっすぐ送って行け、まっすぐ。でもそれを口に出しては言えない。私はヒヨッチに愛されている。私がかろうじて平静を保っていられるのは、この現実があるからだった。その支えを失ったら、間違いなく私は失速し、今 以上に他人や家族に迷惑をかけ、そして自爆するだろうことは目に見えていた。一昨年、私は乳がんで右胸を取った。二十四の誕生日を迎える一ヵ月前だった。青天の霹靂と当時は感じたが、今振り返るとその言葉は当てはまらないように思う。何故ならそれまでの二十三年間、私にとって青天な日などほとんどなかったからだ。不運な私が、なるべくしてなったという方が当たっている気がする。ツイてない人間はどこまでいってもツイてない。でも、その時はもちろんそんなふうに達観できるはずもなく、人生最大のディープインパクトに打ちのめされ、ただ泣き叫ぶばかりだった。がんの進行がステージ4だかになっていて、一日も早く切除するしかないと医者は言った。

一回目の手術は乳首の真下にできたがんとそのまわりの脂肪を取って、翌年には背中の肉を使って乳房の再建手術をした。というと簡単そうだが、肉体的にも精神的にも信じられないほどきつかった。再建たって、何もおっぱいが前とそっくり同じに戻るわけじゃない。半年たった今でも、胸の丘のまわりにぐるりと派手な傷痕があるし、背中なんか日本刀で切りつけられたような十五センチほどの傷が生々しく残っている。しかも乳首の再建手術はまた落ち着いたらということで、私の偽おっぱいには乳首がない。前は一刻も早くつけようと思っていたが、もう一度入院して麻酔を打って手術するのかと思うと、このままでいいかと投げやりな気持ちになる。豹介と知りあったのは乳がんが発覚する少し前で、私には他に年上の恋人がいて、まあ、もてたことがない私にとって初めての二股という状態だった。

関係あるわけないけれど、不細工な私がいい気になって二股なんかかけたからこんなことになったのかな、と思わないでもない。豹介は私が当時勤めていた会社に短期のアルバイトにきていて、何度か大勢で飲みに行ったりしたら気があって仲良くなり、酔った勢いでやってしまった仲だった。乳がん発覚が豹介と寝る前だったらと思うと、こんな私にも多少の運は残されていたのだと感 謝せずにはいられない。目の前の据膳をよく考えもせず食べちゃえた若さと、いい意味での彼の育ちの良さに。ちゃんとした恋人だった方の男は、私の病名を聞いて尻尾を巻いて逃げていった。泣きながら電話で打ち明けると「大丈夫だよ、俺がついてるから」と言いながら、翌日には部屋の電話も携帯も不通になって、会社に電話をすると「突然理由も言わずに一週間の休暇をとった」と関係ない私が(関係あるか)見ず知らずの人に怒られた。なのに豹介は逃げなかった。

私と私の家族に混じって一緒に泣いてくれ、暴れて手がつけられない私に毎日会いに来てくれ、根気よく慰めてくれた。手術が終わって目が覚めた時も、両親と共に彼の顔が心配そうに私を覗き込んでいた。それからずっと、豹介はそばにいてくれる。情緒不安定な私が壊れて暴れると、若者らしく逆ギレして「がんになつちゃったもんはしようがねえだろ!あきらめろ!」と怒鳴りかえしてくるけれど、それでも去っていったりはしなかった。車を百円。パーキングに停めると、私たちは手をつないで一人暮らしの豹介の部屋へと向かった。郡部にある彼の実家は大きな運送会社でたいそう羽振りがいいらしく、学生にはもったいないような2DKのマンションに住み、アルバイトしなくても十分やっていける仕送りも貰っているようだ。いつものことだが、部屋に帰るとすぐ彼は風呂を沸かす。病的なほど清潔好きな彼は、外出から戻るとまずシャワーを浴びたがつた。やがて私にも半強制的に風呂に入ることを勧め、ずぼらな私が面倒くさがったので、じゃあ一緒に入ろうということになったのだ。

もはや習慣となったお風呂タイムには性的な雰囲気はなく、彼は汚れた食器を洗うかのように自分と私の体と髪をゴシゴシ洗った。最初の頃はこっぱずかしいの半分と、こんな体になっても慈しんでくれるなんてという感動が半分あって落ち着かなかったけれど、今はされるがまま、ただ何も考えずに洗われている。愛されてるんだ、と前は思っていたが、最近ではなんだかよく分からなくなっている。なんでこの男は他人の体をこうも懸命に洗うのだろうか。洗うだけではなく、風呂から出るとふかふかのバスタオルで彼は私の体を隅々まで拭いてくれる。そしてなんと髪までブローしてくれるのだ。以前、私が洗った髪をそのままブラシで梳かして自然乾燥させていたのを見て、彼が勝手にやりだしたことだ。ロン毛の彼はまるで美容師のようにブローがうまかった。そして極めつけは、専用の鋏で私の眉毛まで揃えてくれるのだ。私なんて眉ブラシさえも持っていないのに。

ヘアメイクの仕事したら成功しそうだね、と前に言ったら、そんなことは考えてもみなかったらしく、俺は親父の会社継ぐんだもんと当たり前の口調で言っていた。風呂から上がったらそのあとは有無を言わさずセックスである。私は手術後ずっとホルモン注射を打っているので、お月様がこない。だから「今日は都合が悪いの」なんて言い訳はきかない。疲れてるとか、めまいがするとか言って断ったこともあるが、そうすると世にも悔しそうな顔をするし、そのあとご機嫌をとるのが大変なので、やってしまった方が簡単である。体を洗われるのと同じで、私はされるがままになる。ホルモン注射のせいなのか、私にはかつて売りたいほどあった性欲が今やまったくなく、結構苦痛である。でも愛されてるんだからと自分を煽って声なんか出すと、体も多少反応するから人間って不思議だ。愛されている感謝のしるしに、彼が要求することはだいたいしてあげる。

若いだけあって持久力がないのが唯一の救いだった。で、セックスが終わると、ようやくお茶が出てくる。ペットボトルのウ一口ンなんかじゃなくて、コーヒーでも紅茶でも緑茶でも、沸かした熱湯で丁寧にいれたものだ。私なんかのためにそこまで、とこれも最初の頃は感激したが、どうやら自分が飲みたいからだと最近は分かってきた。その証拠に、ずっとこちらを見ていた彼の目が、点けたテレビにばかりいくようになっていた。このような展開が週に三回か四回。愛されるのも結構つらい。「ヒヨッチ、明日は学校?」「うん、二限から。ルンちゃん酔いざめた?」ベッドの上でぼんやりテレビを眺めながら彼は言った。自覚はないのだろうが「酔いざめた?」は「そろそろ帰ってくれ」という意味である。愛しているわりには彼は私が泊まっていくことをあまり喜ばない。他に女がいるというわけではなさそうだから、単にシングルベッドに二人で寝るのがいやなだけだと思われる。「明日、注射の日だからそろそろ帰るね。終わったら電話する。夜、一緒に食べる?」服を着ながら言うと、彼は私の質問には答えずこめかみのあたりを指で押さえていた。

「どうかした?」「いや、なんとなく頭重くて。風邪かな」「大丈夫?お医者さん行った方がいいんじゃない?」「いや平気」「行った方がいいって。年寄りと乳がん患者の言うことは聞いとくもんだよ」そこで彼が突然、拳を枕に思い切り振り下ろした。カバーの端が破れ、派手に中身の羽毛が散った。また逆ギレか、と思ったら彼が低く呟いた。「いい加減にしろよ」ほとほと疲れたように彼は息を吐く。「もう終わったことだろう。治ったんだからもうルンちゃんはがん患者じゃないんだよ。いつまでもそれに甘えてるなよ。このままずっと働かないで、俺んとこ嫁にいけばいいとか思ってんじゃないの?もうやめてくれよ」終わったこと、と言われて、私は反論しようと口を開きかけた。けれど気持ちとは裏腹に出てきたのは「ごめんね。もう言わない」という媚びた声だった。

「帰るね」そう言って立ち上がると、彼はさすがに言いすぎたと思ったらしく、立ち上がって玄関までついてきて軽くキスしてくれた。けれどそれ以上は送る気はないようだったので、私は笑顔で玄関を閉めた。。パーキングまでとろとろ歩いて、私は駐車料金を払い車を出した。この車は私の親の車で、両親が使わない平日は私が自由に乗り回しているのだ。豹介も私と知りあう前は親に買ってもらった車があったらしいが、事故を起こしてあっという間に廃車にしてしまったそうだ。それから恐くて運転したくなくなったそうで、さっきのように私がすごく酔っ払っている時以外は運転しようとしない。運送屋の息子がそれでいいのか、と笑ったら「ルンちゃんには分かんないよ」とその時もキレていたっけ。

 

 

 

 

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