黒い花びら
 
 
  昭和歌謡界黄金時代を、疾風怒涛のごとく駆け抜けた無頼の歌手・水原弘の壮絶な生涯!  
著者
村松 友視
出版社
河出書房新社
定価
本体価格 1500円+税
ISBN4−309−01394−5

プロローグ

私にとって水原弘とは何か一九七,八年七月五日、ような記事が載った。「朝日新聞」の夕刊に、『黒い花びら』散る」という見出しのついた次の「黒い花びら」などのヒット曲を出した歌手の水原弘さん一みずはら・ひろし“本名高和正弘=たかわ・まさひろ)が五日午前七時二十九分、肝硬変のため、北九州市戸畑区中原東の健和総合病院で亡くなった。四十二歳。告別式の日取り、喪主は未定。自宅は東京都港区六本木ニノ一ノ一〇。昭和三十四年、「黒い花びら」でデビュー、黒シャツにニヒルな顔立ち、それに独特の低音と相まって「黒ブーム」をまきおこし、曲は爆発的なヒットとなった。この曲で第一回レコード大賞を受賞、映画、テレビでも活躍したが、病気で倒れて、一時、不遇の時代が続いた。昭和四十二年、「君こそわが命」で再デビュー、その年の歌唱賞を受け、カムバックを果した。

最近はクラブ、キャバレーを中心に全国をまわり、六月二十三日、巡業先の山口県下関市のクラブで仕事をした後、北九州市小倉北区のホテルに宿泊、二十四日未明、吐血、意識不明となり救急車で病院に運ばれた。関係者の話によると、今年が歌手生活二十周年ということで秋にブラジル公演、日本縦断コンサートをする予定だった。この日、各紙が夕刊で水原弘の死を報じたが、顔写真はあったものの、いずれも大きく扱われた記事というほどではない。しかし、それぞれの水原弘イメージが報道の記事によって微妙に違っていて興味深い。たとえば「『黒い花びら』の水原弘さん、旅先で死ぬ」という見出しの「毎日新聞」は、「喪主は未定だが、夫人は名奈子(ななこ)さん」と、夫人である名奈子さんの名前を記したあと、次のように記事を綴っている。東京生まれ。高卒後、ロカビリー歌手として「パラダイス・キング」などで歌っていたが、昭和三十四年、歌謡曲に転向した第一作「黒い花びら」一永六輔作詞、中村八大作曲一が大ヒット、同年創設された第一回レコード大賞を受賞した。

続いて低音の魅力と歌唱力を生かした「黒い落葉」など一連の”黒のムード”で売り、映画にも出演、「おミズ」の愛称で人気歌手の 座をつかんだ。しかし、その後はこれといったヒットがなく、仲間を連れて銀座や赤坂の高級クラブを毎晩のように飲み歩く派手な生活がたたって巨額の借金を負い、トバクで警察の調べを受けたこともあった。カムバックを期した四十二年の「君こそわが命」はレコード大賞歌唱賞となり、「愛の渚」「お嫁に行くんだね」などのヒットも出たが、後が続かず、地方のキャバレー回りを主な仕事にしていた。芸能界きっての酒豪で、昨年一月急性アルコール肝炎で三カ月入院以来酒を断ち、今年は歌手生活二十年目で、秋にはブラジル公演や日本縦断コンサートを予定していた。一後略一ロカビリー、。パラダイス・キング、「黒い花びら」、第一回レコード大賞、おミズ、”黒のムード”、巨額の借金、トバク、「君こそわが命」、地方のキャバレー回り、芸能界きっての酒豪、急性アルコール肝炎……これらは、節目、節目の水原弘にからめられた言葉であり、その一つひとつが私の記憶にもあざやかに残っている。それもさることながら、水原弘の死を報じる新聞記事が、私の中にとくに強い印象を残しているのには、いささか訳がある。

水原弘の「黒い花びら」という曲が大ヒットしたのは昭和三十四年すなわち一九五九年だが、この年の春に私は大学に入学した。この年は、一月にバチスタ政権を打倒したカストロ指揮によるキューバ革命のニュースが日本にも大きく伝えられ、四月には皇太子一現天皇一の”御成婚”があり、六月には安保反対デモ隊の国 会構内に突入といった、衝撃的な大ニュースが多かった。大学一年生であった私は、そういう大きいニュースには興味がなく、もっぱら渋谷や新宿あるいは銀座あたりの”ジャズ喫茶”に入りびたっていた。大学生の問題意識が、翌一九六〇年の大爆発に向ってふくれ上っているのに、私は失語症を抱えながら水の底にじっとうずくまり、水面の荒波を時おり見上げるような感じだった。大江健三郎の『飼育』が芥川賞を受賞しようが、安部公房が『第四間氷期』を書こうが、吉行淳之介が『娼婦の部屋』を発表しようが、当時の私にとっては何の関わりもない遠い出来事だった。そんなことよりも、長いこと馴染めなかった日本の歌謡曲に対して、前年の第一回「ウエスタン・カーニバル」で口火を切った”ロカビリー・ブーム”が、横車を押すかたちで大ブームを起していることを心地よく感じていた。

藤山一郎、岡本敦郎、渡辺はま子、伊藤久男、二葉あき子、青木光一、三浦洗一、三橋美智也、春日八郎といった歌謡曲界のスターたちの歌には、十八歳の私はどうしても馴染むことができず、ましてレコードを聴きたいとも、生の歌に接したいとも思わなかった。そこへいくと、前年から火がついた”ロカビリー・ブーム”の渦中で活躍する世代的に近い人気者には、自分に近い感覚をおぼえた。第一回の「日劇ウエスタン・カーニバル」で、山下敬二郎、平尾昌章一昌晃一、ミッキー・カーチス、小坂一也、中島そのみ、水谷良重たちは、これまでの歌謡曲ファンの外側にいた若者の心をつかみ、一週間で四万五千人の観客動員を果した。ステージに上って歌手に抱きつく女性ファンの熱狂ぶりが社会現象として話題となり、その驚異的なありさまを高校三年生の私は静岡県清水市の映画館で、ニュース映画の中のシーンとしてながめたものだった。第二回には、守屋浩、釜氾一かまやつ一ひろし、井上ひろしらがスターの仲間入りを果し、第三回には坂本九も登場し、昭和三十三年九月に「ダイアナ」の大ヒットを飛ばしたポール・アンカが 来日するに及び、”ロカビリー・ブーム”は一気にピークを迎えていた。ロカビリーのスターたちは、NHKの紅白歌合戦に登場するような既成の歌手とちがって、歌の上手下手よりも熱狂的なムードを身につけた不良のイメージがあった。

それをあまり勉強好きでない若者が大歓迎し、私もそっと紛れ込んでいるという気分だった。これに似たブレイクの仕方をしたスターとしては、すでに石原裕次郎や小林旭の存在があった。だが、映画会社が売り出したスターという立場とちがって、確乎たる額縁を持たぬロカビリー歌手たちは、そこから仕立てあがって大歌手になる器とは思えなかった。歌謡曲世界の脇道に、ある一瞬の輝きを与える毒の花……一般の歌謡曲愛好者たちは、そんなふうにながめていたはずだ。だが、そのロカビリーの人気者たちが打ち揃った「ウエスタン・カ一ニバル」の盛況ぶりはすさまじく、歌謡曲愛好者はこれを”社会現象”として見ることで自分を納得させていたのではなかったか。そのロカビリーの人気者の中から、水原弘という異色の歌手が登場してきた。ただ、水原弘はそのロカビリー歌手の中にあっても、ひとりだけまったく別の匂いをもっていた。守屋浩、井上ひろしと共に、”三人ひろし”の一人として押し出された………という印象はあったが、熱狂の中に氷の塊がひとつ浮いているというふうだった。

私は、日劇の「ウエスタン・カーニバル」の中における水原弘に、漠然とそんなイメージを抱いていた。「ウェスタン・カーニバル」はやはり、山下敬二郎、平尾昌章、ミッキー・カーチスを御三家とする特攻集団で、熱狂の渦の中に否応なく若者を巻き込んでゆくのが真骨頂、御三家がそれぞれのスタイルで歌う「ダイアナ」の異様な盛り上りがその象徴的シーンだった。ウェスタン……と冠がついても、ジミー時田や寺本圭一など本来のウェスタン歌手は、やがて小坂一也がブレイクするまで、地味な脇役を演じざるを得なかったのである。下宿の部屋でトランジスタ・ラジオを聴くのが、あの頃の私の夕食前の習慣だった。そのラジオから流れてきた「黒い花びら」を耳にしたとき、これはいったい誰の歌なのだろうと誇った。歌唱力、声質、曲想、歌詞のすべてが、新人の歌う曲のものとは思われず、かと言って既存の歌手の声ではなかった。三連符をかさねたロッカバラードの曲、冒頭に鳴りひびく松本英彦のサックス、そして次に歌い出されるしわがれてドスのきいてしかも甘い低音……その感触は、あきらかにこれまでの日本の歌謡曲にないものだった。

黒い花びら静かに散ったあの人は帰らぬ遠い夢俺は知ってる恋の悲しさ恋の苦しさだからだからもう恋なんかしたくないしたくないのさ……と歌詞を歌ってゆくうち、歌謡曲やロックンロールというよりも、その歌声にはクラシックの歌唱法のごとき、ケレン味のないオーソドックスなテイストがあらわれた。私は、その水原弘という歌手の声と歌に、いっぺんにパマってしまったのだった。しかもそれは、NHKの紅白歌合戦で聴くことのできる歌とは、あまりにもちがう匂いをもった歌だった。私は、「公園の手品師」や「有楽町で逢いましょう」「東京午前三時」などを歌ったフランク永井に、それまでは心を傾けていた。しかし、フランク永井は世代的にかなり上だし、キャンプをべ−スにしたジャズを基本とするという意味で、そのルーツが理解しやすかった。日劇や渋谷東宝のステージでの「雪村いづみショー」の前座で歌っていた「16トン」なども好きだったが、「16トン」には残念ながらテネシー・ア一二ー・フォードという本物がいるわけで、それ自体を独立したものとして味わうには物足りなかった。とにかく、あきらかにジャズの匂いをもったフランク永井に対して、「黒い花びら」の水原弘はその歌や声のルーツが謎めいていて、私はそこにも強くそそられるものを感じたのだった。

「黒い花びら」を耳にした衝撃は、私からフランク永井への気の傾きを消したばかりでなく、石原裕次郎やエルビス・プレスリーと同じあこがれの位置へ、水原弘を一気に押し上げてしまったのだった。そして、三十四年にスタートした第一回レコード大賞を受賞した水原弘は、「レコード大賞?何だい、それ」と口走ったというエピソードを手土産のように、大晦日のNHK紅白歌合戦に出場してしまった。私は、紅白歌合戦への水原弘の登場を、なぜかハラハラした気持で待っていた。そのときすでに、私は水原弘を我らの兄貴分くらいに思っていたにちがいなく、学業も文学も無縁の不良学生の最た るものだった。そして、結果的に私はその”紅白”での水原弘の歌い方に、大いに不満を抱いたのだった。水原弘のデビューは、文学のジャンルで言うならば「太陽の季節」の石原慎太郎みたいな、時代の空気を切り裂くような衝撃的なものだった。

全国でNHK紅白歌合戦を見守る人々のほとんどが、「水原弘っでどんな歌手なんだろう……」と、抜擢された派手な新人を、検分がてら見守っているにちがいない。そういう連中をおどかしてやらなくちゃ……というのが水原弘ファンとしての私のこだわりだった。ところが、「レコード大賞?何だい、それ」の水原弘は、余裕綽々のプランでこのステージに臨んだ。それは、中村八大のピアノだけの伴奏で歌うというやり方で、私にはあまりにも凝りすぎた高級なプランに思えた。全国にはまだ「黒い花びら」の楷書というか、レコードに録音された歌い方さえ聴いたことがない人がかなりいると考えるべきであるにもかかわらず、まともに歌ってもつまらない……といった気分がステージにあらわれていたのだ。おそらく、音楽の玄人筋や水原弘周辺、百歩ゆずって私のようなファンくらいまではそのプランは届くだろうが、白紙の人々にはインパクトが弱いだろうと私は感じた。本文P.7〜14より

 

 

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