なぜ美人ばかりが得をするのか
 
 
 
  「美人」のナゾを科学が解く! 美しさがヴェールをはがす最新理論 スーパーモデルも絶賛!  
著者
ナンシー・エトコフ
出版社
草思社
定価
本体 1900円(税別)
ISBN4−7942−1019−1

美は見る者の目に宿る?

美しい肉体。哲学者はそれについて思いをめぐらせ、ポルノ屋はそれを商売にする。人間はなぜ 美しい肉体を求めるのかと尋ねられたアリストテレスは、こう答えた。「そんなことは、目あきな ら誰にでもわかる」。美は心をとらえ、人をとりこにし、情熱の火を燃えあがらせる。プラトンの イデア一永遠不変の理想の姿一からピンナップ写真にいたるまで、美しい人間のイメージがつくりあ げられてきたのは、理想的な人間の姿を見ること、想像することへのかぎりない欲望をみたすため だった。 しかし私たちが生きているのは、醜悪な美の時代だ。美の道徳性が疑われ、醜悪なものが、ざら ついた魅力を発散する時代である。美は肉体にも想像力の中にもひとしく存在する。

私たちは美に 夢を吹きこみ、あこがれでみたす。裏返して言えば、美への憧憬はたんなる現実からの逃避にすぎ なくなる。そこで私たちは言い古された言葉で、すり抜けようとする。すなわち「美は見る者の目 に宿る」。つまり、喜びが感じられるものはみな美しいというわけだ(言外に、美は言葉であらわ せないという意味がこめられている)。しかし、これでは美そのものに意味はないと言うのも同然 だ。 一九九一年に、フェミニストのナオミ・ウルプは、何世紀にもわたる人びとの意見をくつがえし て、美は客観的・普遍的な実在ではないと発言した。

「美は金本位制と同じような流通システムで す。経済と同様、政治によって動かされるものであり、現代の西側諸国では、美への信仰は男性支 配を確保するために有効な、最後の、そして最良の切札なのです」。ウルプは、私たちの身のまわ りにあるイメージは、神話にもとづいていると言う。イメージをつくりあげ、それを女性たちに麻 薬として売りつける巨大産業にとって、美は利用価値のある都合のいい絵空事である。美という名 目で女性は社会の中枢から閉めだされ、男性の望む場所へと追いやられる。資本主義も父権社会も 美を文化的消耗品とみなし、羨望と欲望をかきたてるべく、いたるところで美のイメージを氾濫さ せる。

それがかきたてる欲望は、金儲けと現状維持という目標を二つながらに達成させる、という のだ。 多くの知識人が美はとるに足りないものだと指摘する。なにを証明するわけでも解決するわけで も教えるわけでもないから、知的な議論の対象とすべきものではない、と。私たちはほっと安堵の ため息をつく。結局のところ、美など厄介の種でしがなかったのだ。 しかし、それではなにかしつくりこない。概念の外の世界で美は確実に支配をおこなっている。

誰もが美しいものに目をとめ、美しいものを楽しむ。美しいものを無視することは、肉体的欲望を 抑えたり、赤ん坊が泣いても無関心でいるのと同じくらいむずかしい。美は死んだと言うこともで きよう。だが、それは現実の世界と現実にたいする人間の理解とのあいだの溝を広げることにしか ならない。 美がこれ以上深みに沈んでしまわないうちに、手もとにたぐり寄せて調べてみよう。

広告業界が 寄り集まっているマディソン街の男たちがスヴェンガリ(ジョージ・デュ・モーリァの小説『トリルビ 』の主人公で、ヒロインを催眠状態にしてあやつる音楽家)のような力で、女性の行動や好みをあやつり、 その美意識を左右しているとすれば、女性は無力で思考力もないことになる。しかし実際には、美 を追い求め、美にかかわる産業を利用し、美がもたらす力を最大限に活用しようとしているのは女 性のほうではないだろうか。

女性の悩みは美を追求できないことではなく、美しさ以外の長所を伸 ばせないことではなかろうか。 のちにご紹介するように、マディソン街は巧みに世間の嗜好を操作するが、好みをつくりだすわ けではない。それはウォルト・ディズニーが大きな目と小さな手足をもつ生きものをかわいいと思 わせたわけでも、コカコーラやマクドナルドが甘いものや脂っこいものをおいしいと思わせたわけ でもないのと同じだ。広告会社も企業も、どんなものを着れば美しく見えるか教えてくれるが、そこでくすぐられるのは私たちの美の感覚ではなく、ファッション感覚である。

ファッションについ てフランスの詩人シャルル・ボードレールは、「目に楽しく、誘惑的で食欲をそそる、極上のケー キのトッピング」と表現している。つまり、ケーキそのものとはちがうのだ。 メディアは私たちの嗜好の振幅を探り、それをせばめようとする。大衆を喜ばせるイメージが鋳 型となり、美は模倣者を生み、そのまた模倣をする者たちも出現する。多くの大衆に愛されたマリ リン・モンローを、ジェーン・マンスフィールドからマドンナまで誰もがまねしたがった。美のイ メージには人種差別と階級意識が反映されるが、美そのものに人種にたいするこだわりはなく、多 彩をきわめている。

ダーウィンはこう書いている。「誰もが同じ鋳型でつくられていたなら、美な どというものは存在しなかったろう」 美にたいする反動が生まれた一因は、美への願望があまりに肥大化し、それが病める文化のあか しと受けとられたことにあった。歴史や人類学の文献を調べると、人類の歴史の最初から、人びと が美の名のもとに自分の肉体に彫りものをし、色を塗り、穴を開け、詰めものでふくらませ、締め つけ、そぎ取り、磨きあげてきたことがわかる。ダーウィンは十九世紀にビーグル号で航海をおこ なったとき、世界のいたるところで「身を飾る情熱」を発見した。

それは「とほうもない」犠牲や 苦痛をともなうことも多かった。 肉体を傷つける行為は「原始」の文化や古代社会での話だとしても、美はあらゆる人間に原始本 能を目覚めさせるようだ。一九九六年の調査では一年間に六九万六九〇四人のアメリカ人が、みず から進んで美容外科手術を受けたと報告されている。皮膚を破く、皮膚を焼く、脂肪を吸いとる、 異物を埋めこむなどの手術である。一九九二年に食品医薬品局がシリコン移植を制限する以前には、 連日四〇〇人の女性がその手術を受けていた。

豊胸手術はかつてはポルノ女優が受けるものと相場 がきまっていたが、現在ではハリウッド・スターにとっては当たり前で、ふつうの主婦が受けるこ とも珍しくなくなっている。 こうした大胆な手段をとるのは、ゆがみを矯正するためではなく部分をより美しくするためだ。 ユトレヒト大学のキャシー・デイヴィスは、オランダで自分の外見を変える手術を望む五〇人以上 の人びとを観察した。「鼻のつぶれた」ひとりの男性をのぞいて、デイヴィスにはその人たちが自 分のどこを変えてほしいのか、外見からは判断できなかった。彼女はこう書いている。

「私は驚修 した。ごくささいな欠点にしか見えないことのために、これほど大変な手段に訴えようとする人た ちがいるとは」。しかし、顔や肉体にかんしては、ささいな欠点など存在しない。いかなる人も自 分の顔や肉体については、地図の作り手のように地形や風景を充分把握している。第三者から見れ ば、私たちの容貌は最高のときでも最悪のときでもそれほど変わらない。しかし、自分の心の目か ら見れば、私たちの姿は目まぐるしく変化する。

そしてヘアスタイルが気に入らない、傷跡が見え る、体重が増えたなどの条件が、気分や気力や精神状態の浮き沈み以上に、私たちの自信に作用す る。 人びとは美の名のもとに極端なことにも走る。美しさのためなら投資を惜しまず、危険をものと もしない。まるで命がかかっているかのようだ。ブラジルでは、兵士の数よりエイヴォン・レディ ーエイヴォン化粧品の女性訪問販売員一のほうが多い。アメリカでは教育や福祉以上に、美容にお金がつ ぎこまれる。莫大な量の化粧品一分あたり口紅が一四八四本、スキンケア製品二〇五五個 が、売られている。

アフリカのカラハリ砂漠のブッシュマンは、早魃のときでも動物の脂肪を塗っ て肌をうるおわせる。フランスでは一七一五年に、貴族が髪にふりかけるために小麦粉を使ったお かげで食糧難になり、暴動が起きた。美しく飾るための小麦粉の備蓄は、フランス革命でようやく 終わりを告げたのだった。 世界が集団狂気に陥っているのか、この狂気になにか法則があるかのどちらかだ。人は外見にと らわれずにいられない。心の底では誰もがそれをわかっている。

『ヴォーグ』『GQ』『ディテール ズ』などのファッション雑誌、ケイト・モス、ナオミ・キャンベル、シンディ・クロフォードの写 真をすべて焼き払ったとしても、まだ若く完壁な肉体のイメージは私たちの心にこびりつき、それ を自分のものにしたいという欲望が頭をもたげるだろう。例外はひとりもいない。「なにか人生に 悔いはありますか」と尋ねられたときのエレノア・ローズヴェルトの言葉は、胸をしめつける。 「もっと美人だったらよかった」と答えたのだ。

人びとから最高の尊敬と愛情を受け、きわめて満 たされた人生を送ったと思われる女性が口にした、いかにも切実な言葉である。女性だけではない。 三部作の自伝『幼年時代』『少年時代』『青年時代』の中で、レフ・トルストイはこう書いている。 「私はしじゅう絶望感に襲われた。私のように大きな鼻、分厚い唇、そして小さな灰色の目をもつ 人間がこの地上でしあわせをえるとはとても思えなかった:……人間の成長に外見ほど強烈な影響力 をあたえるものはなく、容貌の美醜がその人間の自信を左右する」 個人がもっとも外にあらわれる部分が容姿だ。

容姿は目で見える個人のあかしであり、世界はそ れを鏡として目に見えない内的な個人を推測する。その推測はまちがっている場合もあるし、美醜 がそのまま善悪につながるわけではない。だが、まったく的はずれとばかりも言えない。美がもた らす効果は、否定し消し去ることはできない。美はその働きをとめないだろう─司法権のおよばない、人間の魅力という法なき世界で。学者たちが知的議論の対象から閉めだそうと、わけ知り顔 の人びとが美などとるに足りない浅薄なものだと鼻であしらおうと、現実の世界では美の神話が確 実に生きている。

本書では私たちがなにを、なぜ美しいと思うかを問いかけてみたい−私たちの本性の中のなに が美にたいして感じやすいのか、人間のいかなる性質がその反応を呼び起こすのか、そしてなぜ美 にたいする感受性が人間の本性の中に存在するのかを。

人びとが必死に美を求めるのは、本能の作 用でもあることをとりあげたい。ジョージ・サンタヤナ(一八六三 - 一九五二、スペイン生まれのアメリ カの哲学者、詩人、小説家)は、こう書いている。「人間の知覚が快楽とむすびついていないなら、人 間はこの世界にたいして即座に目を閉じるにちがいない……人間に美の感覚があたえられているの はまぎれもない特典である」。

本書を書くにあたっては、知覚にかんする科学的な最新の研究と進 化心理学にもとづいて考察をおこなった。進化論的な視点で美にかんするすべてが説明づけられる わけではないが、本書がその多くを解明する手がかりになり、人間の生活の中で美がどのような位 置を占めているか、俯瞰できればさいわいである。 美は部屋に入ってきたとたんにわかる 私たちは他人の外見をつねに採点する。

私たちにそなわった美の探知機は、けっして動きをとめ ない。魅力的な顔だちを目にすると、自動的に親しみを感じるか否かを判断する。美の探知機はレ ーダーのように周囲を走査する。ほんの一瞬(ある心理学の実験では○・一五秒)顔を見ただけで、 相手の美しさを評価する。そしてその評価は長く見つめた場合も変わらない。

その後時間がたち、 その人物のこまかな特徴は忘れても、第一印象は記憶に残る。 美は根源的な喜びである。あなたが美にたいして不感症になったと想定してみよう。おそらくあ なたは、不調を訴えるようになるだろう─肉体的にも精神的にも落ちこみ、情緒も不安定になる。 肉体的な美にたいする反応の欠如は、深刻なうつ病の兆候と考えられるこれは一般によく知ら れた事実であり、うつ病の識別検査の中には、自分の肉体的魅力にたいする感じ方の変化を尋ねる 質問がふくまれているほどだ。

では、美とはなんだろう。これから見るように、美を完全に説明できる定義はない。まず商売と して美を売る人びとは、どう考えているだろう。彼らは空中を漂う抽象的なものより、具体的な事 実を基準にしているはずだ。「チャーリーズ・エンジェル」や「ダイナスティ」といったテレビ・ シリーズのプロデューサー、アーロン・スペリングは言った。

「言葉にはできないが、それが部屋 に入ってくればすぐにわかる」。男性トップモデルを抱えるモデル・エージェントの話は、もう少 し具体的だ。「ドアを開けて入ってきたとたん、息を呑むというか。めったにはありませんが。見 てわかるというより感じるのです。つまり、通りで出会ったら、どうしても目が釘づけになる人で すね」。興味深いのは、専門家たちが美を見た経験は語っても、美がどんな姿形をしているのかは語っていない点である。

 

 

 

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